同質的共同性と併存性

同質的共同性。このプレッシャー、日本は凄くあると思います。他の国にも知論あるんでしょうけど、日本は特に強い気がする。物事って裏表やから、それが同時に日本の良さでもあるとは思うけど、昔のムラ社会とは社会の仕組みどんどん変わってきているから、少しずつ変化していかんとアカン部分じゃないかとは思う。

【「一年生になったら」――「同質的共同性」指向の原点】

「併存性」を考える為に、反対の「同質的共同性」の人間関係を再確認してみる。

「一年生になったら」という歌がある。「一年生になったら友達百人できるかな」という歌詞だが、あれは強烈なメッセージ。プレッシャーを感じた人も多いのではないか。

学校とは、とにかく「みんな仲良く」「いつも心が触れ合って、みんなで一つ」という、まさにここで「幻想」という言葉を使ってみたいが、この歌に象徴されるような「友だち幻想」というものが強調される場所の様な気がします。けれど、私達はそろそろ、そうした発想から解放されなければならないと思っている。私が言いたい事は、「子供達が誰でも友達になれて、誰でも仲良くなれる」という事を前提としたクラス運営・学校運営は、やはり考え直した方がいいのではないか、という事です。

私は教育大に勤めているので、仕事柄、小中学校の校長先生や先生方とお話をする機会が多いが、非常に人格が優れていたり、リーダーシップもある先生、教育現場で力を発揮していると定評のある先生ですら、というよりも「だから」こそかもしれないが、やはり「子供達というのは、みんな良い子だから教師がサポートさえすれば、みんな一緒に仲良く出来るはず」という前提で頑張っている様なのです。どの学校でも「いじめゼロ」を目指している。そのためのプランは、「みんなで一つになって」「人格教育に力を入れて、心豊かな子供を育てたい」「みんなで心を通い合わせるクラスを作りたい」と語る。

私は、「それは理想だろうし、努力目標としてあげるのはいいかもしれないけど、そういうスローガンだけでは、逆に子供達を追い詰める事にならないか」と思ってしまう。「一人でいないで、皆の輪に入りなさい」という言葉に圧力を感じる子や、みんなと一緒になれない事を気にするあまり、「僕はダメなんじゃないか」と思う子も少なくない。また、理屈を超えて、「こいつとはどうしても合わない」というクラスメイトだっているはずです。

大人になってからは、誰もがそう言う体験をしているはずなのに、「子供の世界は大人の世界とは違う。みんな仲良く一緒になれるはず」というのは、「子供の世界にあまりにも透明で無垢なイメージを持ち過ぎ」なのではないでしょうか。学校文化を振り返って考えると、これまで「同質的共同性」という側面にしか目を向けられてこなかったのではないかと思います。

著者の菅野さんは、社会がこれだけ変わってきたのだから、これからは「併存性」が大事だろうと書かれていますが、自分とは違う価値観を好きにならなくてもいいけど、他人の価値観をある程度は認められる許容性が大事になりますよね。コロナ禍でのマスクやワクチンの問題も、この「みんな一緒!」という部分が強すぎるのが問題なんじゃないかと思います。

僕自信は幼稚園の頃から、「みんな一緒に仲良く」が苦手で、自分が「今、これをやりたい!」という事に集中する方やったから、学校生活のような集団生活は苦手でした。勿論、集団の中で上手く生きていく能力も必要だから全く無意味だったとは思いません。役に立っている部分も大きいと思う。でも、そこで失た部分もあるのだろうとは思うんですよね。

現実に人間には、団体での活動が向いているタイプとあんまり向かないタイプがありますよね。一つの価値観で人間を縛るのは、人類という群れ全体を考えた時、かえってその群れを弱くする事になると思う。スポーツを選ぶ時だって、明らかに個人競技が向くタイプと団体競技が向くタイプがあると思うし、同じ人でも成長段階で変わる部分もあると思うんですよね。

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