もう一人の自分

昨日も雑草を山ほど抜いてきました。この写真の何十倍という量。抜いても抜いても、物凄い勢いで生えて来るので、もうほんまキリがない。

こうした雑草の屍の山をいくつもいくつも作っていたのですが、その時にふと思ったのが、「これ動物やったらものスゴイ残虐な感じやんな、写真に撮ってネットにあげたら絶対炎上やん」って。相当な「大量殺戮」ですよね、動物や人やったら。

なぜか雑草、植物なら人はそう感じない。いや、勿論、植物の痛みを感じる繊細な心を持つ人も中にはいてはると思うんですけど。

僕は、昔に大本という(教派神道の一つ)所で教えて頂いた「出口なお開祖は雑草を抜く時も、ごめんなといいながら抜くんやで。彼らも命を持って生きてるんや」という言葉に感動した事がある程の偽善者なので、いつも雑草を抜く時や木を切る時は心の中で「ごめんね」と言いながら、いい人ぶって抜いたり切ってるんですが、こうやって屍の山を見てると、ほんまはただの極悪非道な人間かもなって思えてきました。

これが動物なら、僕には出来ませんもんね。血を見たらもう出来ない。でもそれも慣れてしまったら平気で出来てしまうんでしょうけど。

ましてや人なんて絶対に殺せない。そう今は思ってるけど、戦争になってしまったら殺すんでしょうね、そして慣れたら、平気になるんやと思う。勲章を貰ったら、喜んで殺すのかもしれない。それで人に称えられ、評価が上がって、自分が英雄になれたら、もうキチガイの様に喜んで殺しまくるのかも。

なんで人なら残虐、動物でも残虐、と言うのに、植物なら思わないんでしょうね。よく内海先生が「ヴィーガンやベジタリアンほどの偽善者はいない」という様な事を言われますが、植物からすれば本当にそうでしょうね。

生きていく上での殺戮は、どんな生き物でも仕方ないし必要な事やと思うけれど、人類だけはその自然のルールを超えた量の殺戮や搾取をしていく。地球上のあらゆる資源を搾取し、動物の自由を奪い、囲って自分の都合のいい様にする。植物も同じ。あ、今人類にも同じ事をしている最中ですよね。

人間は感情脳の部分で、動物とは感情の交流が出来るので、動物の感情や痛みは分かってしまう。だから、動物には情が湧くし、可愛く感じるし、同情もしやすいんでしょうね。

植物には、それが感じにくい。ちぎっても痛みで叫ばないし、大声で助けを求めないし、血も流れない。だから、平気でブチブチと抜いてしまえる。自分を全く残虐だとも思わずに。

ブッダとか、宗教家が悟ると、あらゆる生命の心の声、喜びも悲しみも痛みも感じる様になると言うけれど、「それってどんな感じなんやろう。なってみたいな」とか思ってたけど、なったら何も出来なくなりそうですね。

色々考えてる振りをしてるけど、僕はまた明日も平気で抜くんやろうし。

自分がやってる事ってなんなんやろうな、自分は色んな命を犠牲にしてそれを食べて生きているけど、それだけの価値がある人間なんかな?と思ってしまいましたね。

人間界の価値観ではなくて、神様というか自然の法則から見て。今のところは死んでない、生かされているという事は、一応「生きててもかまへんで」と言われてるって事なんでしょうけど。なんか昨日から取り留めのない考えがグルグルと頭の中をズ~っと回っています。

こういうの子供の頃からよくあるんで、決してウツ状態とかではないんですけどね(笑)、考えてもしょうがない、と思いながら、でも考えてしまう。心の中にいるもう一人の自分、それが良心なのかもしれないけど、色々うるさく言うてくるんですよね~。

良心の呵責ってやつでしょうかね、それともただの「偽善者のつぶやき」なのか(笑)。

Follow me!

前の記事

視覚化は大切

次の記事

バナナで転ぶコント