部分を寄せ集めると、ウソになる①

自然農の教祖的な人物、福岡正信さん。
この考え方は全てに通ずるものだと思う。全体視が欠けると、部分的な正しさのみを追求するようになる。
ミクロでの正しさがマクロで必ずしも通ずる訳ではない、という事が分からないのが学校エリートなのだと思うけど、医療でも教育においても現実世界では通じない現実を認められない人が多いですよね。

このやり方・考え方の構造が、現代社会ってあらゆる世界で全く同じなんですよね。全てにおいて、「部分だけ、その場だけ」の近視眼的な思考法で、全体的、長期的視点がない。机上のみで通ずる理屈になっていて、様々な条件が絡む現実の環境の中では、「ウソ」になってしまう。

【部分を寄せ集めると、ウソになってしまう①】

「技術がどうして発生したか」

稲作には田圃を鋤かなければならない、深耕するほど米がよく出来る。こういう技術がどうして発生したか。それは、鋤かなければならない様な状態に田圃をしてしまった。ということ。
土を鋤いて水を入れて練って、壁土を練る様にして空気を追い出してしまい、バクテリアも殺してしまった。
土を死滅状態にして、そこへ肥料を入れる試験をしてみたら、無肥料と比べて、肥料を入れた方が稲が太った。だから肥料を入れると米はよく出来る、という結論になった。
自然の土というのは,放っておいたら自然に肥えてきて肥料なんか入れなくてもいい様になっている。それを人間が痛めつけて、力を無くしてしまっておいて、そこを出発点とするから、肥料の効果が出ている様に思われるに過ぎない。
軟弱な果樹を作るから、軟弱な水稲を作るから、農薬散布したら効果が上がったというに過ぎない。

人間が手を加えた方がいい様に見えるが、それは自然の力が足りずに、人間が助ける事が出来たんじゃない。既に人間が自然に悪い働きかけをしている。品種改良をして、軟弱な品種にしたり、“うまい米運動”とか言って、弱い品種を作ったから、八回も十回も薬剤散布しなきゃならん様になってしまっている。

全て試験成績が上がるという事は、人間がその前に、「それに適する様な条件を揃えておいて、試験をする」からです。
利口な学者とか、成績を上げた研究者というのは、そういう「成績が出る様な試験の仕方をするのが上手な人」なんです。
農薬でも肥料でも、みなそうなんです。除草剤についても、草が生える様な状態にしておいて草を生やし、これに薬剤を使える様な条件に仕立てておいて、除草剤を使った、効果があった、という事です。そもそも草が生えない様な状態にしておけば、草は生えやしない。

百姓が新しい技術になぜ飛びつかんかというと、「総合した完全な技術」になっていないからです。「部分的な技術」にしかなっていないからです。

草生も肥料の試験官だけがテストして、肥料的効果しか見ない。病虫害の専門家は、そんな草を生やしたら虫が増えるだろうと言い、虫や病気がなくなる事だけ考えている。

みんながバラバラに言っているので、「どの人もウソを言っているんじゃないが、寄せ集めてみるとウソ」になってしまう。

続く

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