部分を寄せ集めると、ウソになる②

「データ」や「エビデンス」というものを鵜呑みにする怖さはこれですよね。

こういう細工がしてあるものが多数というか、主流なんだと思います。でも、今の社会は数字やグラフを信じる様に、小学校くらいからずっと教育=洗脳されているから、なかなか権威や公の所から発信されるデータを疑えなくなっているんですよね・・・。

「試験の仕方が問題」

私が高知の試験場にいた時もそうでした。戦時中ですから、とにかく多収穫を狙う。多収穫をやるには、どういう技術を持ち寄ったらいいか、という試験設計を作る場合に、肥料部は最大に肥料をやっていく設計を、病虫害対策には最高の農薬量使用の設計を、それぞれ最も贅沢に投入する方法でやる。

すると、肥料の方で二割くらい増収になる。病虫害防除で二割ぐらい、品種改良で二割いくら増収になるという事だった。合わせてみると倍ぐらいの増収になる事になるが、二十俵もの米が出来るかと思ったら、やってみるとやっぱり十俵足らずしか獲れない。試験場の各部の人はそれぞれ一人もウソを言ってはいない。

その正しい事を寄せ集めてみて、結果がウソになっているのはなぜか。
病害虫の防除も、防除したのが防除になっていない。試験室や試験圃場の小さな面積では正しい様に見えても、実際の圃場に持って行ってみたら、違う結果になる。これは試験の仕方が悪かったんだ、というほかない。

ここにある農業試験場の「薬剤散布をしなくてもいい」という試験成績がありますが、皆さんご覧になってどうお考えになりますか。私はこう見ます。肥料を少なくして薬剤散布の試験をしていて、収量が低い。そこに大きな致命傷がある。肥料の量を少なくすれば、病虫害は当然少ない。水の事をどう考えているかというと、この人の場合は水の考慮は一つもない。
肥料と農薬散布の関係だけしか見ていない。

太陽の光がどのくらいであって、気温がどれくらい、病虫害がそれくらい、そこの土地の条件がどうなっているか、土壌はどうか、そういう条件を全部考えた試験が、試験場には一つもない。全国の試験場の成績を集めてみても、みんな小間切れの成績にしか過ぎない。

百姓は毎年、新しい気持ちで作れる。それはなぜかというと。その田が、全く同じ条件、同じ気象のもとに作れる事は一回もない、という事からくる。自然というものは、あらゆる条件が常に流転している。昨年の条件は今年には当てはまらない。
こういうところで、部分的な試験成績は何にもならない。この成績だけをもって、薬剤散布しなくていい、と言ったら必ず失敗する地帯が出て来る。

そしたら、その時に言い訳するには、「あんたの所は品種が悪いのじゃないか。肥料を少なくしなかったから失敗したんじゃないか」といった材料は沢山出来ている。逃げ口の用意のある試験をしている。

今の社会は、全てにおいてこうなっていると思う。

ミクロで見ると正しい。けれど、マクロで見ると、合わない、上手くいかない。

全体的、統合的な視点が欠けているから。

教育でも、医療でも、福祉でも、スポーツでも、ビジネスでも、環境問題でも、みんな同じ構造。

西洋的な部分的思考の利点があるのは確かだけれど、東洋的な全体的思考が欠けると、部分が正しくても全体になった時の調和しない。上手く機能しない、という事が起こってくる。

それが、あらゆる分野において出て来ているのに、なかなかそこを直せないというのはどうしたもんやろう?と思います。

頭デッカチな人、利権絡みの人、そういった人々にとっては、「全体が上手くいく、全体が調和する」事が都合悪く感じるんでしょうね。問題がある方が都合がいい人達。

これを是正するには、気付いて声を上げていくしかないんだと思います。

関連記事 → 部分を寄せ集めると、ウソになる①

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