比較と競争社会におけるドーパミン中毒

アスリートやそこまで行かなくとも、熱心にスポーツやトレーニングをやっている人などを見ていて、気になる事があります。この人、いつまで試合やらはるんやろ?っていう事ですね。

トレーニングも健康維持を越えて、ちょっと体にダメージありますよ、という領域まで、歳を取ってもずっといつまでもやり続けるタイプの人がいます。

その努力も節制も本当に立派ですし、決して悪く言うつもりではないのですが、これはもう、多分ドーパミン中毒なんじゃないかと思う事が多々あるんですよね・・・。

アスリートは練習や試合での高揚感に慣れすぎると、ドーパミンなしでは居られなくなる。理屈では「自分の体から出る物なので、本来は害がない」はずなのですが、「それを出し続ける生活」を長く送り過ぎると、中毒になってしまうんですよね・・・。

他者からの称賛を浴びる、注目される高揚感。そして、トレーニングにおける充実感や達成感。ツイッターやインスタなんかも、そういった脳の仕組みを上手く使ってSNSに依存させていくシステムですし、ゲームなんかもそう。マンガのゴールデンルール(少年マンガや少女マンガの王道になる原則です)もそうですね。

アスリートもこのドーパミン中毒の犠牲になりがちです。

資本主義社会そのものが、このシステムを使っているので、成績や結果を競うビジネスマンも同じ。学歴社会も同じ。比較と競争は、これを煽るシステムなんですよね。

このシステムから抜け出すには、セロトニンやオキシトシン等といった他のホルモンとバランスよく分泌する様にする必要があるのですが、わざとそれを狂わせる様に今の社会は作られているので、なかなか自分で気付くのは難しいんですよね・・・。

競争や興行の世界は、どうしても周りに利用しようとする人が集まりがちになるし、心身が壊れるまで利用され尽くすんじゃないかと心配になることがあります。

もうそろそろ穏やかな生活の中に幸せを感じられる方向になって頂ければ、と思う事が身近で見ていてよくあるんですよね。ご本人からすれば、余計なお世話なんですけどね・・・。

仕事で関わる際には、あんまり強くは言えなかったりするのですが、それでも時々口に出さざるを得ないことがあります。

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昔の日本人は、こういう苦行的なものを若い一時期の修行と捉え、その修行期間を過ぎれば他者との比較や争いを控え、我を抑えて生きるのを美徳としてましたよね。

術から道へと至る事を求め、武術から武道へと変化・成長させましたし、芸も商いも全て、術ではなく「自分を磨く道」へと昇華させましたが、戦後、欧米によってそういうものを古臭いものとされ、他者からの評価を受け、称賛される事こそ素晴らしいと思い込まされてしまいました。

自分自身も若い頃にそうした方向へ走ってしまい、ケガや故障を繰り返して体を壊し、感覚がおかしくなっていた経験があるからなんですが、僕が今、トレーナーとして活動している根っこには、この人工的で商業的な醜い思想を捨て、かつての日本人の凛とした美意識を取り戻したいという想いがあるんですよね~。

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