「勝ちたい」と「負けたくない」は全く違うもの

また修正しますが、とりあえずアップ。

「勝ちたい」と「負けたくない」は全く違うもの。

「対等性」と「階層性」の違い。

非常に勉強になりました。動物の方がホンモノですもんね。小賢しくなり過ぎた人類は、改めてホンモノから生き方を学ばなければならないんやなと思います。

人間は「負けたくない」と「勝ちたい」を混同している

山極:ゴリラは負けず嫌いです。僕はそれを見て、人間もそっちだなと思った。人間の子どもを見ていると、みんな負けず嫌いですよ。でも人間社会は「負けたくない」という気持ちと「勝ちたい」という気持ちを混同している。その気持ちは、本当は一緒じゃないんです。
親は「負けたくない」と言う子どもを見て、「この子は勝ちたいと思ってるんだ」と思う。一生懸命背中を押して「勝て、勝て」と言うわけですよ。でも、“負けたくない結果”と“勝つ結果”は違うんです。「負けたくない」と思ってやるのは、相手と対等であるのがゴールなんだよね。だから、相手を押しのけずに済む。友達になれるんですよ。
ところが、勝つと相手を押しのけて屈服させてしまうわけだから、相手は恨みや恐怖を持ちますよね。だから相手は離れていって、友達ができないんですよ。子どもはそれを本能的に知っているから、あえて「勝ちたくない」という子どもがけっこうできるわけ。でも(親は)それを勝たせちゃうわけだよね。
人間の子どもの場合は、勝つと喜んでくれる人がいるから、「勝つ」という結果が子どもの「うれしい感情」となって記憶されるかもしれない。だけど子ども同士では、それはネガティブな結果になることがあるわけですよ。ゴリラはそれを知っているから、あえて勝たない。
ゴリラは「対等性」を、サルは「階層性」を重んじる
山極:おもしろいのは、ニホンザルだとさっき言ったように、おばあちゃん・お母さん・娘は群れの中で固まって暮らしているわけです。そうするとお母さんは娘を、おばあちゃんはお母さんを勝たそうとするわけ。メス同士で連帯して、勝とうとするんですよ。これを「家系順位」と言うんですね。
だから、ある家系は他の家系よりもみんな強い、という結果になるわけですよね。でもゴリラのお母さんは、子どもを勝たそうとしないんですよ。子ども同士がケンカしたら仲裁に入るけれど、子どもを勝たそうとはしないんです。これ、おもしろいでしょ。ぜんぜん社会のあり方が違うんだよね。
ゴリラは対等性を重んじる社会で、サルは階層性を重んじる社会なんです。こういう2つの社会のでき方があるんだということをゴリラから学んだし、僕は人間の社会はゴリラに近いんだと思っているんだよね。
それを履き違えて、サルのような社会(になっている)。だってさっき言ったように、サルの社会は効率的だからね。そっちのほうに行っちゃったのが現代社会で、それで格差が生まれるんですよね。

自分が空手を始め、並行してボクシングやキックボクシングもケガや故障ばかり繰り返しながら、何であんなに必死になってやっていたんやろうっていう答えを見つけた気がします。

僕は「勝ちたい」からやっていたのではなくて、「負けたくない」からやっていたのだ。

「もっと言い換えるなら、「自分の居場所を見つけたい。自分の力でそれを獲得したい」と思っていたのだ。

その居場所を獲得するのに、必要な強さを追い求めていた。そして、それを手に入れた時に、体が教えてくれていたのだと。

ただ、その時、心はまだそれに追いついていなかったけれど。

「勝ちたい」と「負けたくない」武道は「負けたくない」格闘技(つまり競技スポーツ)は「勝ちたい」ものだと思う。

武道は、自分や家族、一族が「生き残るために闘わなければならない状況に追い込まれた時」に「仕方なく戦うもの」。

それは生き抜くための、闘いであり、生き残るための合戦や戦争、あるいは暴漢に襲われた時など。自衛隊の軍備みたいなもので、闘いはたくないけど、そういう状況が来ないとも限らないから、いざという時のために準備しておく。勝ちたいのではなく、「生き残りたい」のだ。だから、出来るなら危険を冒してまで使いたくはないし、自分も傷つきたくないし、相手も傷つけたくはない。勝っても自分もケガをしたりする可能性がある上、勝ったところで相手からは恨みを買ってしまう。後に復讐される可能性も高い。格闘技は、スポーツ競技であり、他者との争いをゲーム化したもの。そして、それを他人に見て貰って称賛を受けたいからするもの。あくまで遊び。本来はする必要はないものだけれど、「闘うというゲーム」を楽しんでいるだけ。勝ち負けを争うゲームだから、勿論、やる以上は勝ちたい。僕は、15歳で空手を始めて、30過ぎまで試合に出ていましたが、二十代後半から一気に闘争心が抜けて、「闘いたい」という気がしなくなりました。試合に出ているのに、正直あんまり「勝ちたい」と思わないんですよね。勝ち負けよりも、自分の技術が真剣勝負の場で、「きちんと出るのか?」「独り善がりの稽古になっていないか?」という検証の場になっていました。相手をやっつけたい」とか「自分の強さを他者に見せたい」みたいな気持ちが、ゼロでだんだん試合前の死ぬほど苦しいスタミナ稽古とかがやってられなくなってきたんですよね。目指しているものが、勝利じゃないのにやってられない」のは当たり前なんですけどね。その後も、柔道や柔術の試合には:沢山出ているのですが、これはあくまで修行の一環で、打撃の試合に出ていた時とは意識が全く違っています。この記事を読んで、自分は「蒔けたくない」、つまり生き残るための強さ」を欲していたのであって、「他者に勝ちたい」と思って空手を始めたのではないんやな、そしてそれは動物的で健全な欲求なんやなと思いました。身体が小さかったから、幼い頃からどうしても男社会ではバカにされる。一人前に扱われないという、生き残りにくい条件の中で、「対等に扱われたい」という欲求が苦しい修行に耐えさせてくれたんだと分かります。そして、15年ぐらいたった頃に、それまで在った闘争心がフッと消えてしまった。もうビックリするぐらい無くなったんですよね。それまで「絶対に負けたくない!」と思っていた気持ちが。その時、自分でも不思議でしたが、自分なりに納得したんやろうなと思っていたんですが、まあそれで大体は当たっているんでしょうけど、この文を読んで分かったのは最初の動機が自分は「勝ちたい」のではなく、「負けたくない」であったこと。自分を一人前の男であると認識出来るだけの自信を得て、男社会で対等に生きられる自信」を得たいと思っていたのだと。そして、心の次元ではまだまだ全然試合の結果にも、自分の強さにも納得できていないし、「もっとやりたい」と思っているのに、体の次元では「もうこれでOK、それ以上必要ない」ってう答えを出してくれていたんやなと思います。でも、その時は、心が納得出来なくて、それ以降も試合に出続けてしまい、結果的に体をどんどん壊してしまったんですが、これて無理して仕事を頑張って病気になる人と同じやなと思います。そして、武道の意味を考えさせられましたね。

そして、自分が人に伝えていきたいものと、今仕事で伝えているものの中身とが、ハッキリと一致した様な気がします。「居場所作り」なんやなと。

その居場所は、具体的な場所だけじゃない。場所があっても、そこに馴染める自分の気持ちと体の状態がなければアカンのやな、という事なんだと思います。

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