苦労や痛い目にあってこそ、観えるものがある

為末大さんの文章を読んで、考えてみました。
「分かる」とは何なのか?

分かっているつもり。ちゃんと見えているつもり。
でも、本当は分かっていないし、見えてすらいない。

「離見の見」。 

これが本当に難しいから、人は生涯苦しむのだと思う。

「ちゃんと見ているのに見えない」という、この心の盲点。

一生、見えないままの事もあれば、あるキッカケでパッと観える瞬間もある。人間という生きものは、一生、これを繰り返していくんでしょうね。

以下、陸上の為末さんのFacebook記事より転載

わかるとはどういうことでしょうか。何かがわかったと感じることや、わかったと相手に聞いたり、自分で言うことは多くありますが、しかし、本当にわかっているのか確認するのはとても難しいことです。

中国語の部屋という話があります。ある部屋がありそこに人が入っています。小さい窓がありますがそれ以外には全く外との接点がありません。部屋の中にはたくさんの辞書と単語カードがあります。その小さな窓から中国語単語が渡され、それに適合する英単語を中にある紙から見つけ窓から出します。外から見ればまるで中国語を理解しているとように見えるという話です。
いやわかるが存在しないのは抽象的な世界だけであって、数学的な世界ではわかるは存在するという反論はあり得ると思います。しかし仮に数学的な世界だったとしても(それがどのよう世界か数字に弱すぎてよくわかっていませんが)どのような問いに正確な回答をするのだとしても、ある記号が入りそれに適合する記号が吐き出されているだけかもしれません。

もし、その人がわかっているかどうかを確認する方法もなく、自分自身がわかっているかどうかを確認する方法もないのであれば、私たちはどうやって人を育てているのでしょうか。相手がわかっていないと察し、わかるように促しているのは一体何を頼りに行っているのでしょうか。

私たちは階層を見ているのではないかと思います。ある階層での最適解は一つ上の階層から見れば最適ではありません。ある会社の中で最も優秀になる方法を追求することは、会社の外の社会から見ると滑稽かもしれません。また、今の社会に最適化することは未来の人間から見ると滑稽かもしれません。矛盾するようですがわかっていなかった自分を発見することで、私たちは分かり続けているのではないかと思います。

わかるとは今の階層では整理できないことが一つ上の階層の視点を手に入れることで整理できた瞬間なのではないかと理解しています。なぜわかっていない人にわからせることが難しいのかというと、その人が立っている視点で最も合理的に考えたとしても辿り着けないからです。しかし、階層を上げる具体的な方法はおそらくありません。メタ認知を具体的に手に入れる方法がないように(促す方法はある程度あるかもしれませんが)、です。

結局のところ「待つ」しかないのだと思います。階層を無理に引き上げることはできません。気づきは外からアプローチはできますが、いつも内からやってくるものです。

さて別の問題として、自分がわかっているのかどうかどうやって気づけばいいのでしょうか?特にコーチがいない選手は気づき続けなければほぼ確実に伸び止まります。一方でわかっていないのは自分ではなく社会の方だったという可能性も捨てきれません。「君はわかっていない」と反省させるのはカルトの常套手段です。

最終的には、どこまでいっても「わかる」は到達できないと知ることだと思います。その立ち位置に居続けながら、確かそうなものを探求することが「わかっていないけれどもわかったという確信に陥る」ことを防ぐ唯一の方法ではないかと思います。そしてその状態でいる時私たちは「楽しい」や「面白い」と感じ、状態自体を「あそんでいる」と評するのではないかと思います。



だまし絵とかもそうですが、見えた瞬間に全てがパッと変わる。「今まで、なぜ見えなかったんやろう?」と不思議なくらいにクッキリと見える。

でも、その気付きの瞬間までは、いくら言われても、教えられても、全く見えない。

感謝とか気遣いとか、優しさや」思いやりといった目には見えないモノは、特にそう。頭で理解していても、観えないし分からない。

だから、相手の想いを踏みにじったりしてしまう。そして、他者との関係をぶち壊したりする。

結果として、人が去り、自分が痛い目に遭った時に初めて観えてくるものがある。

「苦労が必要」と昔からずっと言われているのは、そうやって「見えないものが観える」様になるためには、それが必要な経費みたいなものだと考えられていたからなのだと思う。

よく昔、何かに失敗した時とかに、「ええ月謝、払ろたな~」とおばあちゃんに言われたのを覚えています。

そう考えると、傷つかない様にと周りの人間が気遣って優しく接し過ぎるのは、優しさではなくもはや残酷な振る舞い、虐待ですらあると言ってもいいかもしれないなと思います。人間にとって、「いつまでも気付きを得られない」という事ほど、怖ろしい事はありませんよね。

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