洗脳と教育の差

洗脳と教育。

陸上ハードル走の為末さんの記事を読んで考えたこと。おっしゃる様に、それはグラデーションなんでしょうね。

「どこからが洗脳」と断言出来るものではないし、込められた善意と悪意の差でもない。

悪意がある洗脳もあれば、善意から来る「ドリームキラー」と言われる本人の成長や可能性を潰すものもある。

この差は、人間が一生の間、真剣に考えなければならないものなんやろうと思います。

以下為末さんのフェイスブック記事から転載です。

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メディアと教育にはさほど大きな境目がないことがわかります。戦時に言論統制を行ったとされる鈴木中佐は軍部内の教育係を経てメディア対応係になりました。人の考え方に影響を与えることが双方が持っている特徴です。

言い換えればメディアのみが洗脳をおこなっているのではなく、私たちが触れる教育や情報は皆、人の考え方に影響を与える側面を持っているということです。親も社会も皆子供が無垢な時に教育しているとも言えますし、ある考え方に染めているとも言えます。

為末大

メディアは洗脳であるというコメントがありました。洗脳まではいかなくても確かに人の考え方に影響を与えている側面はあるかと思います。戦前日本のポピュリズムを読むと、言論統制などがある前の段階で、戦争突入にメディアが世論を煽ったことが大きく影響していたことがわかります

ただそう考えるとそもそも教育もまた似た側面を持っています。メディアと教育にはさほど大きな境目がないことがわかります。戦時に言論統制を行ったとされる鈴木中佐は軍部内の教育係を経てメディア対応係になりました。人の考え方に影響を与えることが双方が持っている特徴です。言い換えればメディアのみが洗脳をおこなっているのではなく、私たちが触れる教育や情報は皆、人の考え方に影響を与える側面を持っているということです。親も社会も皆子供が無垢な時に教育しているとも言えますし、ある考え方に染めているとも言えます。こうして今、字を読んでいる行為すら自然の能力ではありません。

では、「洗脳」と「考え方に影響を与えること」は何が違うのか。辞書の中での定義では、洗脳は強制力を用いて思想や主義を根本から変えることとあります。そうなると強制力は何かが気になります。物理的に身体を拘束することでしょうか。しかし、xjapanのtoshiさんの「洗脳」を読むと、身体的拘束はない例があることがわかります。

そうなると自由意志とは何かという問いに行き当たります。外部から強制されない自らの意志がなければ洗脳の整理がつきません。そしてそれは主体的な自らの意志とは何かという問いに突き当たります。私は結局社会に生まれた以上、常識から教育を経て洗脳まではただのグラデーションだと考えています。

考え始めてしまうと「あの人たちは洗脳されている」と言っているその自分自身が洗脳されていないことに確証が持てない感覚になります。北野武さんがたかじんのバーという番組で、バイク事故のあと、意識を取り戻したら病室で心配そうに覗き込む森さんというマネージャーを見て、「森さん」と呼ぼうとするのですがそれが間違えていたらどうしようと悩んだそうです。間違えていないという感覚自体が壊れていた場合、何が事実か確かめようがないわけです。最終的に「八木さん」と違う名前でわざと呼びました。相手が悲しそうな顔で「森です」と言ったの見て、自分がおかしくなっていないことを確かめまました。

自分自身が正常であることを確かめることが一番難しくかつ最後まで確証が持てませんが、誰もが自らを正常であると確信することで社会は円滑に動いています。

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