人間の器

人に指導していて、この「器」というのは本当に感じます。

何なんでしょうね、この器と呼ばれるものの正体って。

知識の量でもなく。身体能力でもなく、運動神経の良さでもない、何かもっと大きなものって感じがする。あえて言うなら、魂の深さ」みたいな感じがするけど、言葉では言い表し様がないもの。

でもハッキリと感じるんですよね、肌で感じる感覚。

そういったものについて書かれた、齋藤孝(明治大学教授)の文章を抜粋して紹介します。

【人の「器」は変えられない】

人の「器」という事がよく言われますが、これは決まったものなのか。

西鶴は、「才覚は磨く事が出来るが、人の器というのは変える事が出来ない」と考えていた。

「細波や近江の湖に沈めても、一升入る壺はその通りなり」

琵琶湖の様な大きな湖に沈めたとしても、一升の壺には一升の水しか入らない。どんな環境にあっても人の器というものは変わらない、という事を表している。

今は子供達に対して「無限の可能性があるんだから頑張れ」とよく言うが、江戸時代は「己の分を知り、それを守る事が大切だ」という感挙げの方が主流でだった。

人の能力は努力によって徐々に伸びるものではあるが、正直なところを言えば、人によりその伸び幅には違いがある。

そして、その違いを決めているのが「器」といわれるもの。

器というと抽象的だが、これは。その人が持てるスケール感の大きさの違いと言うと分かりやすいかもしれない。

ビジネスの場合、このスケール感は、その人がどの位の桁の金額を扱える人間なのか、あるいは何人の人間を雇える人間なのか、という事で測る事が出来る。

金額と同じ様に、雇える人間の数や持てる部下の数というのも、その人の器によって違ってくる。

人を雇える人というのは、それだけの器があるということ。この能力にも、人のよって扱えるお金の額に違いがある様に、何人、何十人、何百人、何千人と器に違いがあり、スケール感の違いがある。

これと似ているが、世の中には部下を持つのに向いている人がいる。

日本では、年長者の上司が部下を束ね、給料も部下より高いという概念があるが、アメリカなどではマネージメントという仕事が根付いているため、若くても多くの人を管理する仕事をする人がいる。

物を売り利益を上げるディーラーと、その人を管理するマネージャーの場合、ディーラーの方が給料が高いという事はよくある。スポーツの世界でも、監督が必ずしも線Sニュより給料が高いわけではない。

これは役割の違いであって、上下関係ではないのだ。

若い内から、自分はプレイヤーとマネージャーのどちらが向いているのか、マネージャーだとしたら何人位 管理出来る器を持っているのか、という事を考えておくのは大事なこと。

その違いを自分がわきまえていれば、例えば教師なら、自分校長のような管理職になりたいのか、生涯教壇に立って生徒達を教えたいのか、という選択をする時に迷ったり選択を誤ったりする事がなくなる。

実際、人を雇ってお店を経営する能力を持たない人が店を持って失敗したり、プレーヤーとしては有能だったのに管理職になってダメになったという例は、世の中に沢山ある。

そういう意味では、大きな夢を持つのも大切だが、無限の可能性という言葉に惑わされてしまうと、叶わぬ夢を追って人生を棒に振る事にもなりかねない。

どこかで「自分の器の大きさはどの位なんだろう」と冷静に自分の器を見極め、その器の大きさに見合った夢を持つ事が、人生を充実したものにする上で必要な事だ。

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確かに今の時代は、人を差別しない」という事が行き過ぎて、この「器の違い」を認めなさ過ぎてかえって人を不幸にしている面がある様な気がします。

その人の「分」を守っていた方が、その人なりの幸せや:充実感というものが得られたであろうって言うのは、身近でも有名人であっても感じる事は多い。

昔の人は、いわゆる「学」はなかったかもしれないけれど、体を張って生きていたから、その人生経験から来る、人間の器を見抜く「深い洞察力」が現代人とは全く違ってたんやろうなと思います。

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