世の中を見ていて思うのですが、本当に「自分のやりたい」事を「自分の意志で決定している」人って少ないですよね。

色々な人にトレーニングを指導していて感じるのですが、自分でトレーニングを希望して行っている人ですら「“心の底“から自分のやっている事を自分で決めているか」というと、そうではなかったりします。

分かりやすくいうと、「自分の意思」でサッカーをやっていると本人は思っているけれど、それはたまたま今、自分がそれをやりやすい環境にいたからで、本心が望んでいるのはもっとマイナーなスポーツだったり、音楽だったりする場合があるって感じでしょうか。

でも、それじゃ社会的な評価が得られないとか、世間から理解されにくい、あるいは異性にモテない(笑)、近くに習える場所がない、とかそういった理由で、何となく手近なところで選んでいたりする場合が結構あるんですよね。「フィギュアスケートを習いたい」と心の底では思っているけれど、習える場合が通える範囲でないからダンスにしてみた、とか。

まあ、これなら本人の自覚もあるからいいんですけど、何となく世間や他人の目を意識して、自分の行動を選んでいる人が多いな、と色々な人に接していて感じます。

「やせたい」とか「姿勢をきれいにしたい」と思って来られているけれど、「自分が心の底から願っている」というよりも「他人の目を気にして、あるいは怖れて」というのが、実際の動機であったりするという感じですね。

で、一番の問題はその弊害を意識出来ていない部分にあるんですよね。

人間って、本当に自分の意志で行動を決めていないと、最後のところで頑張り切れない、つまり「本気になれない」からです。

やりたい事ランキングの二番目、三番目で選んでいる人って、しんどくなってくるとどこかで「投げ出してしまう」確率が高いんですよね。

あるレベルまでは継続して努力していても、いよいよきつくなってきた辺りで「自分はそこまでは頑張れない」という気持ちが出て来る。

それは「自分の意志」で決めていないから。

世間や他人の価値観を取り入れて、どこかで妥協した「意思」レベルで行動を選択しているんですよね。だから、どこかに「やらされている感」が入ってしまう。

これは、指導していてハッキリと感じる部分ですね。もう本当にハッキリと分かります。

「“心の底からは願っていない”んだな」って。

その競技を「カッコいい」と思ってやっている場合でも、その時に心が「その道で頑張っている自分を本気でカッコいい」と思えている人と、「それをやっている自分を他人がカッコいいと認識してくれるはずだ」と思っている人って、動機が全く別なんですよね。

その動機、最近はモチベーションと横文字で表す事が多いですけど、その心の底にあるエンジンの持つエネルギーの容量が全く違うんですよ、自分基準と他人基準では。

自分基準の人、つまり「意志の人」はそう簡単には諦めない。

だって自分の意志ですもん、本気で自分がカッコいいと思い、そういう自分になりたいって思っているんですから。

でも他人基準の人は違う。他人の目、世間の目が基準だから「本当はその競技や仕事でなくても、別にかまわない」んですよね、実際は。本当の動機は「他人から評価されたい」だから、本音のところでは「その仕事や競技でなくてもかまわない」んです。

そして、その差が、精神的にキツくなってきたり、素質がないんじゃないか、とか心の中に迷いが出てきた時に、水面に浮き上がってくるんですね。苦しい状況で踏ん張れない。さっさと諦めてしまう。「何が何でもという執念」が持てないんですよね。

その姿が他人からは「根性がない」と評価されたりするんですけど、でも本当はそうじゃないんですよ。これって根性の問題ではなくて、単純に「“自分の意志“でその行動を選んでいない」からなんですね。

この最大の理由は、幼い頃からずっと「他者との比較・競争」という社会的な基準・ルールを与えられて、その中で育ってきてしまったからです。「他人から与えられる評価の点数」だけを意識して、本当の自分の想いや望みを忘れてしまった。自分の本当の意志を封じ込めて生きてきたからなんですね。

「たとえ向いてなくたって、とにかく自分はこれが好きなんだ!」っていう基準で、自分の行動を選んで生きてきていないんですよ、多くの現代人は。いつも、何をする時にでも、行動の選択の際に、「他人の目」が入っている。まあ、人間は社会的動物ですから、それが入るのはいいんですけど、そっちの方が割合が大き過ぎるのが問題なんですよね。

「自分は他人からどれだけの点数を与えて貰えるのか?」という他人の評価の方が、常に「自分の意志」よりも優先されている。

でも、そんな動機で行動を選んでいたら、辛い時に頑張れるはずがない。

だって、要は他人の意思に従っているだけじゃないですか。「自分が望む人生」を捨てて、わざわざ「他人が望む人生」を生きているだけ。極端な言い方をすれば、この動機の持ち方は「他人の奴隷」になる事を選択しているっていう事です。

こういう生き方をしていると、ちょっと辛い状況になってしまった時に、他人基準の選び方をしているから「やらされている感」がムクムクと湧き上がってくるんです。

「自分はそこまでは頑張れない」、「苦しい想いをしてまで、他人にカッコ悪い自分を晒してまで、これをやりたいわけじゃない」と、心の奥底に封じ込めていた「本音」が浮き上がってくるんですね。

こういう心理状態になったら、もう終わり。

もう動機ゼロですもん。頑張れない。

でも、それは仕方のない事なんですよね。

根性がないわけじゃないんですよ。単に自分の意志ではなかっただけなんですから。

そんなものを続けていても仕方がない。さっさとその「偽物」の夢や目標は投げ捨てて、本当に「自分の“意志“が望むもの」を探し出せばいいのです。

「いやいや、それが難しいんだ」っていう人がいるのですが、本当は難しくも何ともありません。自分の心から、一旦「他人の目・世間の目」を外せばいいだけです。

「他人が自分をどう評価するのか」という基準を外せばいいだけ。勿論、それが全て必要ないわけではないのですが、とにかく一旦外すのです。

だって、自分基準でない人は、他人や世間相手のレースに負ける以前に、「自分の心の弱さ=動機の弱さ」に負けてしまうのですから。

必要なのは、「自分が本来、持っている心の強さ=動機の強さ」を引き出し、それをエンジンに設定する事なのです。

それを自分の行動選びの第一条件にした上で、二番目に「他人目線」もセットしておき、「他人から自分はどう見えているのか?」「他人に協力して貰うには、自分はどんな立ち居振る舞いをすればいいのか」を考慮していけばいいのです。

そうすれば、「動機・モチベーション」がなくなり、立ち止まってしまう事はなくなるはず。

この様に、「やる気=モチベーション」は自分の中にある潜在的能力、生命力みたいなものを引き出す「カギ・フック」の様なものになるわけですね。

では、そのフックによって引っ張り出されるエネルギーとは一体なんなのでしょう。

次からは、それを探っていきます。

→ やる気の正体とは?