「真っ直ぐな気持ち」「愚直さ」と「愚かさ」。

これを分けるのは何処なんでしょうね。

考えさせられる記事を読んだので紹介します。

魚雷発射レバーを手に叫んだ「くたばれ」 14歳で志願した元海軍特別少年兵・鈴木忠典さん(94)

僕は思想が右寄りなので、こういう文章を読むと、ある種の「人間の気高さ」みたいな部分を感じてしまう部分があります。

左寄りの人からすれば、嫌悪感を感じられる部分だと思いますが、「自己犠牲」に人間の崇高さを感じてしまうんですよね。

でもその一方で、それは凄く「愚かさ」にも通ずる部分があるとは思いますし、実際先の大戦ではこの人間の「真っ直ぐな気持ち」を利用して「愚かな」方向へ利用されてしまった部分が多々あると思います。

「冷静な視点と思考」と「人としての熱さ、情の深さ」。

この相反する二つの要素を兼ね備えるのは、人間にとって相当難しい事なんでしょうね。

そのためには、常に「自分を俯瞰して観よう」という想いを持つしかないのかな、思っています。

以下に記事を転載

魚雷発射レバーを手に叫んだ「くたばれ」 14歳で志願した元海軍特別少年兵・鈴木忠典さん(94)

機関銃の弾が飛び交い耳をかすめた。当たれば致命傷。それでもかまわず「くたばれ」と叫び、魚雷発射のレバーを引いた。

 14歳で海軍に志願し、インドネシア中部に送り込まれた鈴木忠典さん(94)=東京都大田区。戦場では敵だけではなく、亡くなった仲間にも思いやりを持てなかった。「それが戦争のむごたらしいところだ。戦争ほど惨めなものはない」

 秋田県横手市出身。6人兄弟の5番目で「特徴も何もない、ぼんくらな子どもだった」という。そんな少年の心に、海軍艦隊が堂々と隊列を組んで進むニュースがまぶしく映った。1943年、14歳のときに海軍特別年少兵に志願。海軍横須賀海兵団に入団し、水雷学校の特別訓練科で魚雷の発射方法などの訓練を受けた。

 海軍特別年少兵 1941(昭和16)年、14歳以上16歳未満の少年を採用し、将来の中堅幹部候補として養成するために始まった。戦局の悪化で第一線に投入され、採用された約1万7000人のうち、5000人余りが命を落としたとされる。2005年の映画「男たちの大和/YAMATO」(佐藤純弥監督)の題材にもなった。

◆「死ぬことを教える学校だ」

 入校式での校長の言葉をいまだに覚えている。「死ぬことを教える学校だ。君たちは太平洋の防波堤になってもらいたい」。日本は劣勢でも、鈴木さんは「よしやるぞという勇気が余計に出てきた。戦死した、手柄を立てたというようなニュースでいっぱいだから。いつの間にかそういう雰囲気の中に入ってしまう」

 年末に戦地行きが決まり、3日間の休暇が与えられた。「母親の手を握ってから行きたい」と思ったが、帰るには片道19時間。あきらめた。故郷へ向かう列車が通る上野駅15番線ホームに立ち敬礼した。「戦死するかもしれません。国のために戦死したのを親孝行と思ってください」

翌44年2月、インドネシア中部セレベス島マナドの海軍基地に配属された。ある日、港から25キロ先に敵の艦隊を発見し、鈴木さんにも攻撃命令が下った。魚雷2本を積んだ小さな魚雷艇に8人が乗り込んで出撃。敵艦まであと3キロの地点で発見され、機関銃で応戦された。

 銃弾の雨の中、「突っ込め」「くたばれ」と叫んで近づいた。指揮官の命令で魚雷を発射し一目散に引き返した。「後ろを見たら、ものすごい火柱が上がって、音がしている。当たった、当たったと仲間の肩をたたきながら喜んで帰った」

◆8隻のうち3隻が帰らず

 しかし、この日攻撃に向かった8隻のうち、3隻は帰ってこなかった。24人ほどが戦死したことになる。それでも「悲しいとは特別思わなかった。いつ自分たちもやられるかわからない。戦争っていうのはそういうものなんだね」。

 その後、魚雷の補給が止まり、鈴木さんは配置換えで、潜水艦に乗り硫黄島や沖縄に武器や食料を輸送する任務を担った。終戦を迎えた時は、訓練科で同期だった300人中、219人が亡くなっていた。

 翌年、実家に戻った。「背中を流してやる」と一緒に風呂に入った母親は、ぼんくら息子の背中にしがみついて泣いた。「くたばれ」と叫んだ話をすると、父親は「くたばれっていうのは、人間の言うことじゃないんだ。そういう心になってしまうのか」と涙をこぼした。「私は運良く帰ってきたからいいけど、何万人も亡くなった。戦争ほど惨めなものはないって、その頃分かったよな」

◆「戦争がぴんと来ないんじゃないかな その方が幸せ」

 今、学校などで体験を話す機会もある。熱心に聞く子もいる一方、あくびや居眠りをしている子もいる。「年齢が違いすぎると、ぴんと来ないんじゃないかな。むしろその方が幸せだよな、戦争を知らないから」

 確かに、戦後生まれの私にも当時の様子を想像するのは難しい。でも話を聞き、できる限り思いをはせ、伝えることはできる。私がこの仕事に就いたのは「地域の人の声を届けたい」からだ。少年の心をも変えてしまった戦争が再び起きないよう、体験者の声を伝える報道を続けたい。

  ◇

 ロシアのウクライナ侵攻は1年を超えた。日本でも敵基地攻撃能力の保有や防衛予算の倍増が現実味を帯び、きな臭さが漂う。太平洋戦争終結から78年。戦争の悲惨さを忘れていないか。今年も20代の記者が、過ちを繰り返さないとの思いで戦争体験者を取材した。あの戦争は遠い歴史になり、生の声を聞く機会も減りつつある。その貴重な時間を記録し、次の時代へとつなぐ。

最後の方の部分は、如何にも左側、リベラルな新聞って感じですが、この「西側諸国、資本主義の国家はいつも正しい側」みたいな視点はから逃れられないのかな?と不思議に思います。

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