【コミュ障について考えたこと②】

周囲の所作に共鳴するミラーニューロンがうまく機能していない共感障害者は、「所作に伴う概念」そのものが欠落しているのである。「挨拶が上手く出来ない、頷けない、弱い者を見守る、目上の人に先を譲る、後から人が入って来るのでドアを閉めずにキープする」といった気遣いが出来ない。

これらは、本来ならば、親の所作から「自然に写し取る」べき概念の欠落なのだ。

「挨拶の概念が違う」のならば、違いを説明すればいい。怠慢でそれをサボっているのなら、𠮟ってやる事も功を奏する。しかし、「挨拶の概念そのものがない」のでは、このどちらも意味がない。指導者は手も足も出ない。

黒川伊保子(脳科学・人工知能研究者)

挨拶というものを、「道徳的なもの」と捉え、その範囲で指導しようとするのが、もうすでに違うというか、「それでは遅いのだ」という事は凄く重要な指摘だと思います。このコミュニケーション障害のベースにあるのは、「相手の所作を認知する事が出来ない」という部分にあること、そしてそれは、心の問題というより「運動能力」の方に関係があるという事が分からないと、道徳的・心理的な部分でのみ語られてしまう。

知的な領域(人間脳)で理解する事ではなくて、もう少し原始的というか、人間になる以前に発達してきた動物の部分の脳の領域がベースになっているんですよね。幼い頃に、しっかりと身体を動かして、「体感」「体験」を通した学びをせずに、「知識の教育」のみに走ってしまうと、相手の所作を認識出来なくなってしまう。

でも、現代の教育は家庭でも、学校でも、いわゆる「知的な部分」への刺激に偏っているから、原始的な脳への刺激が足りない。赤ちゃんの頃から、ヒトの脳はまず「目の前にいる相手の動きを認知する」ところから入る。そして次にその表情や動きを真似ていく。一部ではマスクの弊害も言われていますが、マスクの着用は赤ちゃんや幼い子供が「人間の表情を認知し、真似る」というコミュニケーション能力の基礎を奪ってしまう。脳には臨界期(ある能力をが脳に取り入れられる時期。それを過ぎると吸収が出来なくなる)があるから、後で気付いても取り返す事は出来なくなる。

脳の発達にはそれぞれの能力に適した時期がある。小脳が発達していないと、人間社会で生きていく上で必要とされるコミュニケーション能力の土台が形成されない。人間は群れの動物、社会を構成して生きていく動物だから、これが欠落していたら、非常に行き辛い人生になってしまう。

昔から「学ぶ」は「真似る」と言われるけれど、脳が目の前の相手の動きを「認知」して、「真似る」こと。この能力をベースに、人はあらゆる事を学んでいくのだという事がもう少し知られて行けば、「コミュニケーション能力の欠落で悩む人」、また「そういう人への対応で苦慮している人」の双方が減るんじゃないかな~という気がします。

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