善人の罪①
昔、宗教の勉強に凝っていた時に知った黒住宗忠という人がいるのですが、凄く学びになったのが「善人の罪」というもの。
他の神道系の教えでも、大本では「小善人になるな」と教わりましたし、古の教えには現代の教育がなくしてしまった深い教えがあるもんやなと非常に感動した覚えがあります。
以下に紹介するのは、大本で出口王仁三郎の教えを受けた後、独立した谷口雅春氏の教えですが、同様の事をとても分かりやすく解説されています。
「善人だのに なぜ病気にかかるのか」
私の友達は実に善人だのに肺病にかかっている。これはどういう訳ですかーーーという様な問いを聞かされる事がある。
成る程、これは至極もっともなお尋ねである。この問いには、神がもしあるならば、善人をこそもっと護って健康にしても良さそうなものだという意味が含まれている。
しかし「善人とは何ですか」と問い返すと、ちょっとその人は答えにまごつくだろう。
「悪を犯さない人だ」と答えるかもしれない。あるいは「善悪の観念のハッキリした人だ」「誤魔化しの利かぬ人だ」と答えるかもしれない。
ともかくも肺病になる様な性質の善人は、
善悪の観念のハッキリとした誤魔化しの利かない、いやしくも悪を犯さない、もし誤って悪を犯したら、「いつまでも心がその悪にこだわりなかなか心が自由になれない」で、「自他の悪を咎め、いつもクヨクヨと人生を考えている様な「窮屈な心」の善人が多いのである。
あらゆる他の善さがあっても、心の自由が欠け、窮屈で、気が小さく、いつもクヨクヨ自他の悪に関わっている様では、その人の善さの大部分の価値は失われてしまう。
我々は善人でなければならない。いやしくも悪を犯す事を恥じなければならない。
けれども「善」でさえも、そこに引っ掛かって心の自由を失う時、我々は罠に掛かってしまう。
皆さんは、善悪を一目瞭然の事の様に感じているかもしれないが、我々はこの世界において「ある自分の決めた一つの行いだけが善」であり、その他の事は悪であると決めてしまう事は出来ないのである。
一人の貧しく憐れなる人間に金を恵む事を例にあげてみよう。
金を恵む事は普通「善である」と考えられる。
けれども、金を恵んで貰ったがためにその人が助かる場合もあるが、そのためにその人の依頼心が増長し、人間を騙しやすいものだと考え、人間の慈善心を利用して、働かずに生活しようと思う様になるかもしれない。
もし我々がこんな人に金を恵んでやったらならば、返ってその人の生活を堕落に導く様になる。我々はこういう人に接する時、こういう人が金を貸してくれと頼む時、その人の心的雰囲気を感じて何となく金を貸したくなくなりましょう。
あるいは金を貸さないだけでなく、手酷くののしりたくなるかもしれない。
そして、その人は恥をかいて ののしられて、興奮して恨めしそうに帰って行く。
帰った後でその人は、あんなに言われた時の口惜しさを思い出し、返って発奮して独立独行この世の中に成功する。
するとその時、金を貸してくれずに ののしられたという事は、その人にとって「真の救い」になったのである。
それだのに、窮屈な善人は彼をののしって帰らせた後で、「なぜ自分はあの貧しい男をあんなにののしったのだ」と自分の心の狭さを悔いる。
なぜあの男に金をやらなかったのであろう。
自分は善人のつもりでいたけれども、本当は守銭奴であったのだ、一人の貧しい人にさえ施しをする事が出来ない浅ましい自分だったのだーー
こう思って、その窮屈な善人は、
「自分を責め、自分を苦しめ、ついに自分自身が気鬱症となり、この気の滞りが堆肥となって、かつて心の底に植えられた病気の心的種子がそろそろ芽を吹き、それが胸に来れば肺病ともなり、心臓病ともなる。
ここに窮屈な善人の陥った非情な迷いがある。
その迷いのために、病気の心的種子に肥料が与えられる。
貧しき人に出会ったならば、金を施す他に善の道はあり得ない。
その人は善というものを、そういう風に一つの型に推しはめて、その型にはまらなかった自分を責める。
あるいは、その型にはまらない他の人間を見ては、その人を心の内で非難する。
こうして、窮屈な善人は、自分を責め、他人を責め、この自由な伸び伸びとした世界を、自分の心一つで不自由な狭いものにして、毎日自分を嘆き、人を責めて悲しみと不平と憂鬱とでその日を送る様になるのである。
これは一例であるが、万事について一つの「善」というものに心が引っ掛かるために、心の狭い善人は病気になりやすいのだ。
たといこれ程まででなくとも、肺病や胃病になる様な善人は、事々に自他の行為に対する批判力が強く、律儀で、窮屈で、気が小さい所があるのである。
この窮屈さを取り去ってしまえば、病気の肥料となる気鬱というものが無くなるから、病勢がとみに衰えるのである。
谷口雅春
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