善人の罪②
相手を「根本的に救う」事が大切。
この視点、現代人が決定的に失ってしまったものだと思います。
長期的視野を失い、人間の価値や優しさ、愛といったものを、異常に短いスパンでしか見られない。
だから、甘さを優しさと勘違いし、その甘ったれた精神が医療や食の闇に引っ掛からせる。
本当にに自分のためになる、厳しさや苦さ、苦しさを、「ただただ嫌なもの・避けるべきもの」と見做す人間に、真の審美眼が身に付く事はないと思う。
以下、谷口雅春先生の言葉を紹介します。
「一時を救うのではなく、根本的に救う事が必要」
それなら、貧しき人に会って自分が彼より富んでいても恵む必要はないのか、恵まないでもよいのか?
とムキになって問い詰めて来る人がいるかも知れぬがここが大切な所である。
ある時には恵まないがよろしく、ある時には恵むのがよろしいのである。
恵む恵まぬが問題ではなく、相手を救うーーー「根本的に救う」という事が目的だからである。
我々はまず善を為そうという念願を持たねばならない、それと同時に常に「我が行いをして神心にかなわしめ給え」と祈らなければならない。
そして、その祈りを深める事によって、神の御心があらゆる事にあたって、自分の行いを通じて現れて来るという自信を持たなければならないのである。
我々は、「ある人に金をやってその人が根本的に救われるか」、
「金をやらずに彼の意気地なさを叱責する方がその人を根本的に救う事になるのか」、
人間心では知る事は出来ない。
ただ神と一致する事によって、神を自分の内部に祈り込む事によって、全てを知り給う神の御心が自分を通じて働いて下さるという自信が持てるのである。
自分の知恵で善悪を定めるのではなく、自分に宿って、中から催してくる神の知恵に従うのだ。
神に従う事こそ、唯一の善であり、唯一の愛であり、唯一の知恵であって、その表れは、「怒りの爆発」となって出て来ようとも、「貧しい人を罵って帰す」様な事になろうとも、それを善とか悪とか、とやかく人間心で批評する事はいらないのである。
そこに本当の超越的な「善」が生きて来る。
この超越的な善が生きる時、我々は「真に道徳的な自由」を得る。
今、私はあの貧しき人に対して罵ったが、あれは悪かったと後悔して自分を責める事はいらない。自分を責める暇があれば、「どうぞ私の罵りが因縁になって、あの貧しき人が本当に救われます様に」と心からの祈りを、その人の背後から捧げてあげる方が良いのである。
こうして本当に祈れる人なら、祈っている内に、「これで良し、あの人は救われる」という感じが湧いて来るか、「これではいかぬ、何とかしてあげる方がいい」とか内から心に浮かんで来る。
この祈りの内に浮かんで来る導きの声に任せて、次の行動を取れば良いのである。
「祈りに始まって祈りに終わる」
全て祈りに始まって祈りに終わる時、腹を立ててもよく、腹を立てなくともよく、罵ってもよく、罵らなくともよく、金を貸してもよく、金を与えなくともよいーーそれは全てを知り給う神の知恵が自分に宿って、自分の「我」の知恵でなしに行われるのであるから、どんな行為も もう後悔する必要もなく、自責する必要もない。
広いゆったりとした、何をしても自由自在の境涯に出られるのである。
心にがこうして自由自在の境涯に出られる時、心の中に滞りというものがなく、実に伸び伸びとした「神の子」本然のよい気持ちになれる。
心が自由自在になれるから、腹を立ててもよいのだと言われても、いつまでも一つの事に心が引っ掛かって腹を立てているという事も自然になくなる。
また、相手を救う必要上、一時カッと腹が立った姿を表しめられてもその腹の立つという事にいつまでも心が捉えられないで、すぐにその人のために祈ってやれる様になるのである。
「自分自身の生きる姿が最上の名医」
何をしても神の御心が自分を通して働いて下さる――この事が祈りによって、自分の心の内に確立されたならば、我々は自由な無恐怖な状態になれる。
神に導かれて立つ腹ならば、腹を立ててもそれが返って人の救いになる。
それと同じ様に、神に導かれて出る熱ならば、熱が出てもそれが返って病気の救いになる。
咳が出てもよいし、下痢をしてもよいし、患部が痛んでもよいし、その他どんな容体が出て来ても怖れる事はないのである。
前編→前人の罪①