小善は大悪に似たり 大善は非情に似たり
親子関係でも同じでしょうね。
友だち親子みたいな関係性は、その子の持つ可能性を逆に奪ってしまう可能性が高いと思う。
本当の優しさ、愛とは何か?
人を育てる立場にある者は、常にこれを真剣に考えておかねばならないのだと思います。
W杯男子日本代表やコンサドーレ札幌、横浜F・マリノスの監督として日本のサッカー界をリードし、現在もFC今治のオーナーとして、地方から新たなサッカーの姿を精力的に発信している岡田武史監督。その類まれなる指導者哲学に多大な影響を与えたのが、稲盛和夫さんです。同じくスポーツ界で野球人の育成に徹し、著作を通じて稲盛哲学を学ばれた栗山英樹・侍ジャパントップチーム監督との対談から、稲盛さんから学んだ指導者の真髄に迫ります。
小善は大悪に似たり大善は非情に似たり
〈岡田〉
稲盛さんは「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」という言葉をよくおっしゃいます。直接言われたわけではないですが、確かコンサドーレの後に監督になった横浜F・マリノス時代に、来年のメンバーをどうするか考えていた頃にこの言葉を知りました。
何人かの選手に対して、「いいやつだしチームに残してあげたいけれど、マリノスに残しても試合に出られないからチャンスがなくなる。逆に、他のチームに移籍して、第一線で活躍したほうがこの選手にとっていいだろう」と考えることがありました。
本人はマリノスでやりたいと言っていたので悩みましたが、その選手の将来を考えチームから出てもらいました。
その決断をした後に、稲盛さんの「小善は大悪に似たり。大善は非情に似たり」の言葉を知り、ああ、この決断で間違っていなかったのだとホッとしました。
チームに残してあげるという選択肢は「小善」に過ぎない。僕はそれを「大悪」とまでは思っていませんでしたが、稲盛さんは本当に相手のことを思うなら、獅子が我が子を千尋の谷に突き落とすが如く、厳しく当たらなければいけないとおっしゃる。
スランプの時も同様で、手を貸してあげてスランプから抜けた選手は、その手を離すと再び落ち込んでしまう印象があります。
結局、自らスランプから脱しようとせず、「助けて助けて」と言っている人は駄目なんです。自力でスランプを脱した人は強いですよ。
だから、たとえ選手から嫌われようとも突き放すことも大事です。
〈栗山〉
僕も稲盛さんの言葉をどれか一つ挙げろといわれたら、この言葉だと思っていました。ファイターズの監督をしていた最後の数年はキャンプ中もシーズン中もずっと、黒板にこの言葉を書いていましたし、昨年、10年間務めた監督を辞めた日も、ノートにこの言葉を真っ先に書き込んでいます。
さっきのスランプの話もよく分かって、可哀相だから手を出したくなるけど、それは小善で結局その選手を潰すことになる。
本当に選手のことを思うなら、自分で考え行動できる人間に育てなければならないんです。
若い選手なら1軍にいて使わずベンチに座らせるよりも、2軍に落としたほうがいいのは分かっている。でも、それが本当に誰のためなのか。私利私欲を抜きにして考えるのがすごく難しいですね。
例えば僕は清宮幸太郎を高校卒業後からずっと1軍で使ってきましたが、昨年1年間はずっと2軍のままにしました。
清宮はもっと自分で考えて成長できる選手だと思ったので、我慢しながらあえて厳しい環境に置いたんです。それが今後どう活きるか分かりませんが、僕はいまだに「監督として本当に自分は選手のためになれているのか」と自問自答しています。
〈岡田〉
こればかりは、指導者にとって永遠に自分に問い続ける問題ですよね。監督って選手に好かれようとしたら駄目なんです、選手はすぐ察しますから。そうではなく、尊敬されること。この監督を勝たせたいと選手に思われるだけの人物にならなければいけないんです。
でも悲しいかな、尊敬ってすぐにはされません。何年か後に、あの時のあの教えがありがたかったと選手が気づいてくれるまで、待ち続けなければいけないのだと思います。
僕ら勝負の世界であれば正しいかどうか明白に結果に表れますが、稲盛さんの場合は経営の中でそれを実践されているからすごいですよね。
いまの時代、下手したらすぐにパワハラだと訴えられそうですが、一見非情に思えるようでも稲盛さんは本気でその人のためを思い怒鳴られるから、皆から受け入れられ、感謝されていたのです。
(本記事は月刊『致知』2022年12月号 特集「追悼 稲盛和夫」から一部抜粋・編集したものです)