「分からない」を避けていると、「分かる機会」を失ってしまう
いい記事を読んだので紹介。
苦手な人を「避ける」人が失ういくつもの大切な事「わからない」を拒むと、「わかる」機会を失う
【「他者」の重要性】
トレーナーとして、人に教える仕事をしているとこういった状況によく立ち会います。
「分からない」を避けていると、「分かる機会」を失う。
自分の器を広くしたいなら、今の時点で分からないものを排除しない姿勢は必要になってきますよね。
かつては師という存在がそれをある意味、強制的にさせてくれたけど、今の様な何でもパワハラ、老害と認定される世の中では自分自身でそれをコーチングせんとアカンから大変な気がします。
自分自身の過去を振り返っても、若い頃は特にやりがちな事で、今になって勿体ない事をしていたなと思う事も多いし、せっかく的確なアドバイスを貰っていたのに先輩の言葉の真意を取れていなかったなと後悔する事がありますね。
自分が愚かな内は、狭い視点で物事を捉えているから盲点が沢山ある。
少しでも、賢い視点で世のなかを見られる様になりたいなと思います。
以下、「なるほど」と思った部分を少し抜粋。
よそよそしい相手、わかりあえない「他者」が、なぜ重要なのか。レヴィナスの答えは非常にシンプルです。
それは、「他者とは“気づき”の契機である」というものです。自分の視点から世界を理解しても、それは「他者」による世界の理解とは異なっている。
この時、他者の見方を「お前は間違っている」と否定することもできるでしょう。実際に人類の悲劇の多くは、そのような「自分は正しく、自分の言説を理解しない他者は間違っている」という断定のゆえに引き起こされています。
この時、自分と世界の見方を異にする「他者」を、学びや気づきの契機にすることで、私たちは今までの自分とは異なる世界の見方を獲得できる可能性があります。
レヴィナス自身は、このような体験を、ユダヤ教の師匠と弟子である自分との関係性の中から、体験的に掴み取っていったようです。この感覚は、師匠について何らかの習い事をやった経験のある人には、心当たりがあるのではないでしょうか。
私自身について言えば、学生時代に長らく勉強した作曲がそうでした。習い始めの頃は、どうにもこうにも、師匠の言う「音を外に探しに行ってはならない」という注意が、感覚的によくわからない。
ここで言う「わからない」というのは、もちろん日本語として「わからない」ということではありません。その文言でもって、師匠が意図するところが「わからない」のです。
ところが、この「わからなさ」は、ある瞬間に気づくと氷解している。その瞬間に何があったのかは、自分でも遡及的に体験することができません。とにかく、昨日まで「わからなかった」ことが、なぜかはわからないけれども、今日になって「わかった」と感じられる。そのような体験をした人も少なくないと思います。
このとき「私」という言葉で同定される個人は、「わかった」後と前では、違う人間ということになります。
なぜなら、今日の自分が、昨日の自分に同じ文言を投げかけても、それは「バカの壁」に当たって向こうに届かないからです。つまり「わかる」ということは「かわる」ということなんですね。
「わからない」を拒絶すると「わかる」機会を失う
そういえば、一橋大学の学長を務めた歴史家の阿部謹也は、指導教官であった上原専禄による指導について、その著書『自分のなかに歴史をよむ』の中で次のようなエピソードを紹介しています。
上原先生のゼミナールのなかで、もうひとつ学んだ重要なことがあります。
先生はいつも学生が報告をしますと、「それでいったい何が解ったことになるのですか」と問うのでした。(中略) 「解るということはいったいどういうことか」という点についても、先生があるとき、
「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」といわれたことがありました。
それも私には大きなことばでした。阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』
未知のことを「わかる」ためには、「いまはわからない」ものに触れる必要があります。
いま「わからない」ものを「わからないので」と拒絶すれば「わかる」機会は失われてしまい、「わかる」ことによって「かわる」機会もまた失われてしまう。だからこそ「わからない人=他者」との出会いは、自分が「かわる」ことへの契機となる。これが、レヴィナスの言う「他者との邂逅がもたらす可能性」です。