「自信がない」という気持ちになる事は誰だってあるもの。でも、それを「わりと簡単に乗り越えてしまう人」と、「そこで諦めてしまう人」がいますよね。この差は何なのでしょう?

ここで、自信というものを二つに分けて考えてみましょう。

①一つは「過去の”経験”による自信」です。

先程の、ページで書いた「過去の自分の行動に対して出た”結果”」に対する自信になります。

分かりやすくスポーツで例えると、「一生懸命トレーニングしてはいるけれど、この技術はまだ身に付いていない」とか「ある試合で相手の方がレベルが数段上で相手にならなかった」とかいった事です。これは自分の「行動」に対する「結果」としての「出来ない状態」や「失敗」です。仏教の因果の法則でいうと、「因」と「縁(状況・相手)」に対する「結果」ですね。

縁の相手(行う技・対戦相手・試合が行われた環境)が違えば、結果も変わります。これはある意味では、自分には責任のない部分であり、相手次第といえるわけです。単純に言うなら、自分よりも格段にレベルが低い相手と試合すれば、「結果としての勝利」は簡単に手に入るわけです。全く成長はしませんし、いい経験とはならないけれど。

②もう一つは「過去の自分の”在り方”」に対する信用です。

先のページでいうと、「過去の行いをした時の、自分の気の持ち様、在り様」に対する自信となります。難しい課題だけれど、一生懸命に取り組んだ。結果としてはその課題はクリア出来なかったけれど、手を抜かず、最後まで諦めなかった。だから、結果としては失敗だったけれど、「諦めなかった事により、自分という人間に対する信頼感はアップした」という様なものです。

「結果」や「他者からの評価」に捉われていると、①の基準でだけ自分の価値を量ってしまいがちです。そして、何よりも大事な「自分の在り様」を磨く事を忘れがちになる。

苦しい状況になると、すぐに物事を放り出していると、「逃げ癖がつく」だけでなく、他人からも、そして何よりも怖ろしい事に自分自身から「コイツは信用ならないヤツだ」という評価を受ける事になってしまうのです。

これがイザという時に湧いて来る「自信がない・・・」の原因です。

という事は、これを無くすのは簡単ですよね。

例え結果が失敗になる可能性が高かったとしても、「自分自身に対する信用度を上げる」、そして「自分の粘りや諦めない気持ちを鍛える為にも、最後まで執念深く努力する」という意識を忘れないという事ですよね。

「結果」には必要以上に捉われず、「やり始めた事は諦めずに全力を出し切る」という事さえしていれば、例え結果は伴わなくても、他者からも、自分自身からも「コイツは苦しい状況でも諦めずに頑張った。人間として信用に値する立派なヤツだ!」という評価を得られる事になります。

勿論、他人の場合は全部そういうわけにはいかないでしょう。自分が置かれている様々な状況や、精神的な辛さを皆が分かってくれるわけではないですし、世の中は苦労人ばかりではないわけですから。

しかし、少なくとも、自分自身は一番分かっているわけですよね。あの苦しい状況を逃げずに、諦めずに頑張った。「人のせいや環境のせいにせず、あの状況の中でやれる範囲で精一杯、コイツは力を出し切って頑張っていた」と自分自身を認識する様になるわけです。

これが昔からいう「離見の見」の状態における自分自身を俯瞰するという視点の重要な部分だと思いますし、近代科学でいう「メタ認知」においても同様だと思います。

自分を他人の様に、非情に冷静に捉えた状態で、「コイツは技量的にこういう部分は出来ない所があるけれど、与えられた条件の中で諦めずに一生懸命に頑張るヤツだ。相手のに精一杯応えようとしてくれる誠実なヤツだ」という評価を得られればいいんですよね。

①の自信は、今ある範囲でいいのです。勿論、さらに身に付ける必要がある部分は、さらに努力すべきですが、それにも限界があります。

それよりも大切なのは、②の「自分の内面に対する自信」自分という人間の在り様に対する自信」なのです。

全ての事が、何でもパーフェクトに出来る人間なんて、どこにもいないわけですから、こういう信頼を相手から、そして何よりも自分自身から得られれば、生きていく上で必要な自信としては、もう十分なわけです。