魂の歓喜②

続きです。

「50代から本気で遊べば人生は楽しくなる」 (片岡鶴太郎著」より抜粋して紹介します。

自分の魂が「何を喜ぶのか?」、それを見つけて、それを真似る事から始める、と書いておられます。

【「真似る」という事は「学ぶ」という事】
 
芸人になる前もなった後も、「自分は絶対に出来るんだ」というある種の自惚れや思い上がりに近い気持ちで、物まねに取り組んでいた様な気がします。
その上で、何かを会得していくには「反復練習」しかないと思っています。これはどんな仕事、物事でも同じ。「匠」と呼ばれる様な達人でも、最初から上手く出来たわけではなかったはず。
 
毎日毎日繰り返している内に、何かが見えてくる様になる。そこに至るまでの早道は反復練習以外にないと思うのです。
後にのめり込んでいくボクシングを始めた時も、画や書に取り組んだ時も、最初は憧れの人の所作や作品を真似る事から始め、後はひたすら反復練習に打ち込んだ。
考えてみれば、これは物まね芸の修練と同じです。
 
「真似る」という事は「学ぶ」という事に繫がる。
先輩や師匠のいい所を真似ていく事が、自分が欲するものを手に入れるための一番の手段。
 
人間は「オギャー」と生まれて、一番近い存在の母親から言葉を学んでいく。言葉や仕草、表情を真似し、成長すると価値観も真似る様になっていく。大人になって外へ出ると、今度は先輩や師匠を真似る。
 
これが物事の上達の本質だと思う。
 
その時、「何を選択するか」がとても大事になってくる。
 
ただ真似ればいい訳ではない。
間違った所、そんな所を真似してもしょうがない事を真似てしまうと、思っていた事とまるで違う方向に行ってしまうかもしれない。
 
「最終的に自分が何を欲し、自分のものにしたい」と思うのか。

その「肝」の様なものを意識する事が大切だと思います。

仕事でも音楽でも芸術でもスポーツでも何でも同じですね。自分が憧れる人や世界の中の「どんな部分」に自分の心が共鳴しているのか?

その核になるもの、エッセンスみたいなものが分かるかどうか?

これが分からないと、よくありがちな有名アーティストやアスリートのファッションなどの外見や票根面的な形だけを真似している人になってしまう。

分かりやすくいうと、イチロー選手のバッテリー前のローテの動作とかですよね。あれを真似たって、イチロー選手のバッティング技術は全く身に付かないけど、何となくイチロー選手に近付いたようで気分が良くなったりする。

自分が憧れる、真似たい人の、表面ではなく、「中身・核・エッセンス」を見抜けるか?ここがまず最初の段階で大事になるんですよね。


「燃え上がって来る”シード(種)”の存在」

私自身の肝、最終的に何を求めているかというと、ずばり「魂の歓喜」です。
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、とても単純なこと。

「自分が喜ぶかどうか、楽しいかどうか」です。

世間一般の価値観なんて一切無関係。
社会的に尊敬されるとかお金が儲かるとか、そうした事も全く関係ない。
ただ、自分の魂が歓喜しているかどうか が、私の人生を方向づけてきました。

私は会社勤めをした事はないが、会社の仕事も同じではないかと思う。
組織に入り、その組織の中で偉くなっても何にもならない。退職して肩書きが外れれば、後には何も残らない。
一時は肩書きや給料の多さで満たされても、結局のところ決して魂は歓喜しない。

上司に言われて仕方なくする仕事と、
情熱を傾けてする仕事のどちらが魂の歓喜に繋がるかは、言うまでもない。

退職した後、やりたい事が見つからず時間を持て余している人が多いと言われる。それは、これまで魂の歓喜とは無縁の所で人生を生きてきたからかもしれません。

世間の価値観に合わせて生き、自分の心の声を聞かない。魂の叫びに耳を傾けない。だから、どんどん自分の内なる声に気付けなくなる。そうなると何をやっていても、本当に楽しいとは思えなくなる。すると、その欠乏感を、即物的に、世間一般の価値観の中で満たすしかなくなってしまうのだと思います。

自分の心の中にある芥子粒の様なシードの存在は、心を澄ませておかないと気付く事が出来ません。
理性や意識とは全く別の所で根源的に燃え上がってくるシードの存在ほど、大事なものはないと私は思っている。

芥子粒の様なシードの存在を丁寧に見つめて、それを意識し、毎日毎日声をかけて水をやる。
これは反復作業に他なりません。

すると、シードの気配が何となく感じられる様になり、やがて芽が出て来る事に気付く。
さらに突き進んでいくと、やはり自分は間違っていなかったというギフト、嬉しい贈り物が貰えるはず。

その贈り物とは、
人との出会いだったり、心から満足出来るものを創造出来たりと、様々な形をしています。

私はそんな贈り物を貰えた時に、宇宙の様な、神様の様な得体の知れない存在に祝福されている様に感じるのです。

「よくぞ ここまで来たね」
「それで大丈夫だよ」
と言われている様に。

これこそ、魂の歓喜だと思うのです。

昔から明鏡止水といった表現をしたりしますが、世間の価値観や色々な雑音から離れ、心を済ませた状態にしておくと、心の鏡に「自分の本当に望むもの」や、「目の前にいる相手の心情」が浮かび上がって来るのだろうと思います。

その時に浮かび上がって来たものは、神様というか、本当の自分、真我が見せてくれる地図みたいなものなんでしょうね。

「この道を進めば、自分の心が満たされる。そして出会うべき人や出来事へと導かれる」という方向を教えてくれているんやろうなと思います。

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