離見の見

昔の日本人が大切にしていた感覚、客観視、自己観照。

映画監督とか神様から見た自分って感覚なのかなって気もします。

昔書いてたブログに加筆してみました。

ティモシー・ガルウェイ(スポーツ心理学者)は、ヨガの思想をテニスに応用しようとした。
客観視して命令を下す自分をセルフ1、命令されて実行する自分をセルフ2とする。
セルフ1は言語が使え、セルフ2に命令する。

「その右肘をもっと曲げろ!」「だから上手く打てないんだよ」と、セルフ2のプレーに口を出す。
これが他人なら、反論したり無視したり出来るが、自分自身だから無視するわけにもいかない。すると、セルフ2の能力が高くても、あれこれ口を出される事で動きが惑わされ、本来の優れたプレーが出来なくなる。

特に現代人は、セルフ1が肥大化していると言える。それが、本来の生理的機能を害するまでに色々と命令を発するので、ますます混乱してしまう。非常にストレスや神経症的な葛藤を抱えやすい状態とも言える。
子供でもセルフ1を持っている。

セルフ1は何かと指示したがる存在なので、自分の知識の範囲を超えるものに対してすぐに拒絶反応を示す。つまり素直にそのままやってみるという事が出来なくなる。
「そんな事をしても無駄だ」「出来るわけがない」とか、常に否定的な事を言い続ける。こういう態度は今の子供達を見ていると非常に多い。
この存在をコントロールするために、ヨガ的な発想を持ってくる。セルフ1とセルフ2のさらなる高みから、この状況を冷静に見つめる視点を持つのだ。
自分を俯瞰して見つめる「もう一人の自分」である。

齋藤孝
(明治大学教授)
寝技で「エビ」(という動き)をしているところ。

昔から武道や宗教でも言いますね、「もう一人の自分を持て!」と。自分を客観視している自分、幽体離脱しているようなイメージですかね。稽古や試合の中で意識している内に少しずつは感じられるようになったけど、悟ったとかとても言えないレベルやけど、少しずつ感じられる様になってくるもんですね。

十代の頃、初めて試合に出た時はほとんど相手の顔しか見えなかったっていう位に酷い状況やったから、それと比べると、後半は必死で相手と殴り合いをしながらも、何となくその試合の映像を見ている様な(とまではいかないけど)、少しは客観的な感覚が持てるようにはなりましたね。今は空手やボクシングといった打撃ではなく、柔道や柔術といった組み技の試合なので少し余裕が持ちやすいのかもしれないけど、その頃よりも少しだけ進歩した感があります。(とはいっても、打撃の試合ならそうはいかないのかもしれない・・・)

でも昔からこういう宗教的と言うかスピリチュアルな感覚、世阿弥のいう「離見の見」とかに結構、憧れがあったので、こういう進歩は凄く嬉しいですね~。

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