結びと開き
「ヨーガの思想」より抜粋して紹介します。
ヨーガの原義
くびき、結合、連結。
サンスクリット語の名詞は「くびきで繋ぐ」という動詞語根から派生している。
この動詞は、文字通り「牛や馬をくびきに繋ぐ」「牛馬に装具を着ける」「馬を車に繋ぐ」等の行為を指していたが、転じて「AをBに繋ぎ留める、一つに繋ぐ」という一般的用法も生じてきたものよ考えられる。
「くびきで繋ぐ」というと、日本語では負の響きを伴いがちだが、インドでも否定的意味に使われている例がある。
最初期の仏教経典ではヨーガは煩悩と同じ意に用いられ、伝統に厄(やく)=くびきの訳語が与えられている。
しかし、後の仏教(大乗仏教)ではヨーガは修行、特に心統一行といったプラスの意味で用いられる様になる。確かに、牛馬がくびきで車と一つに繋げられた時にこそ有用性を発揮する事が出来るのだから。
いずれにせよ、「ヨーガ」が原始仏教において煩悩と同じ語義で用いられた例がある一方、大乗仏教やヨーガ学派の修行体系の中では、迷いを抑える手段の意味に使われて居る事は興味深い。
それではヨーガとは、何と何を繋ぎ止める事を言うのか。
比較宗教学者マッソン・ウルセルは、「自分自身と結合すること」と言う。
同時に、結合する対象を「自分自身の内奥に潜む絶対的存在」と解すれば、「絶対者との結合」とも言える。
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昔ヨガを習っていた時にヨガという言葉の意味は、心と体を結ぶという意味だと教わって感動したのを凄く覚えています。
後にさらに精神世界の探求を進める中で、神道の極意も結びと解き(ほどき・開き・切り)であると教わり、またまた感動しました。
だから神社には縁結びと縁切りの神社があるでしょう?と。
武道や肉体を使った行では、それを剛柔一体と表現する。
昔の人は便利な機械がなくて、常に肉体を使って動くしかない分、心と体の繋がり、関係性みたいなものを物凄く深いレベル理解しているんですよね。
ほんの少し前、戦後しばらくまでそういった身体文化がこの日本にはしっかりと生き残っていたのに、今では知る人ぞ知るという位の珍しいものになってしまったのが本当に勿体ないなと思います。日本古来の文化が、アメリカの政策によって、根こそぎ奪われてしまいましたね。
「心と体を結ぶ」、
そして「内なる自分=真我」と結び付く。
これが出来れば、問題はなくなるんでしょうね。
この欲で歪み切った社会に心を毒されて、「本当の自分」になれないから、人は苦しむ。
「欲(私欲)」から離れて、「大欲=真我の望む想い。使命」に生きられたら、人は心が解放されて、苦しみからも解放されるのだと思います。