原因は内か、外か?
為末大さんのFacebook記事を読んで考えたこと。
為末 大
長文ファンの皆様おはようございます。
地球規模で見ると緩やかではありますが自死率と他殺率は逆相関する傾向があります。日本は他殺が少なく自死が多い国です。この結果に対しさまざまな見方をすることができます。もちろん宗教観などは影響していると思いますが、私は対立を個人の中で引き受けるのか、または社会で引き受けるのかの違いではないかと考えています。
例えば日本では「自分の胸に聞いてみなさい」「自分でよく考えなさい」という表現があります。海外の友人に聞くと確かにそんな表現はあるそうですが、頻度がずいぶん違うそうです。日本は内省を促し、一人で静かに考え自分で答えを出させる教育文化を持っています。
一方で対立を表に出すことがよしとされる文化もあります。議論させて、答えを出させる方法です。
この文化の違いは「欲望をどの程度素直に出すか」の違いで現れます。全ての人は違う理想を持っており、それぞれが遠慮せずに出し切ればその間に必ずや対立が生まれます。静かにしたい人と、楽しく騒いでいたい人が同じ部屋にいれば、議論しなんとかするか、またはどちらかが我慢するしかありません。人によって不快なものは違います。不快と感じる側が我慢するか、不快を取り除こうとするかでもアプローチに違いがあります。
欲望と欲望の対立が表面化した時、他殺率が高まり、社会と自分との間の対立を自分の内側に抱え込み我慢する文化では自死率が高まるのではないか。日本人は自己肯定感が低く、幸福感が低いが、一方で他殺率が低く、安全で安定していることも同じロジックで説明できないだろうか、と考えています。
為末さんが書かれている主題と少しズレる気もしますが、民族、文化的な違いもあるけれど、個人でもこの違いってあるなあと感じます。
自分の意識が内側に向かうか?外側に向かうか?
良い事でも悪い事でも、自分の身に何かあった時に、その理由・根拠を「自分に持って行く人」と「他者や環境に持って行く人」の違いは確かにあると思う。
自信がない人は、全てを外へ持っていきがち。上手くいった場合にも、「誰かが助けてくれたから」とか「たまたま運や環境が良かったから」とか。良く取れば、これは謙虚さとなるけれど、悪く取れば「積極性の無さ」とか「自立精神がない」「自分の人生に対する責任感の欠如」ともなる。
反対に自信のある人は、「自分が努力したから」とか「自分に向いている分野だった」とか考える。これは行き過ぎるとただの「傲慢さ」になるし「他者や環境への理解や感謝のなさ」となってしまう。
どちらが正解とかはなくて、今、自分がいる環境の中でその二つのバランスを自分で上手く調整していく必要があるんですよね。
「物事を在りのまま見る」「正しく見る」って本当に難しいこと。
全てが自分のせいでもないし、何でも他者や社会のせいでもない。全ては色々な要素が絡み合って起こっているものであるけれど、その状況の中で、「今、自分に出来る事」に意識を向けられるか?
「他人のせい、社会のせい」にし過ぎず、でも「社会や環境に存在する問題」からも目を背けない。
そんな絶妙なバランス感覚が、人生を生きて行くには必要なのだと思う。