エゴに苦しみ、エゴに磨かれる

自我、自意識、エゴ。人間はこれに一生、苦しめられる。

「自分という人間」に対する意識を他の動物とは全く違う感覚で持ち、それにより他者との比較をし自分で勝手に苦しんでしまう。他者への差別や優越感もこれが原因であるし、生存競争の様な自然界にあるものではない争い、戦争のようなものもこれがあるからですよね。

でも、逆から見れば、この実に無駄な機能のお陰で色々とムダな事を一生懸命にやれるのが人間とも言えるんでしょうね。これがあるから、人間は面白い人生を送れるのかもしれないな、とも思います。

科学文明ならまだしも、文化や芸術、スポーツなんて、このエゴがなければ発展しなかったでしょうしね。クルマやバイク、自転車という楽で便利な文明の利器があるのに、「自分の脚で走ってタイムや順位を競う」なんて、本当にムダな事ですもんね。そんな競技に人生を掛けられるって、実にムダであり、しかし同時にとても素晴らしく意義のある事なんですよね、人類の脳にとっては。

以下、そんな入りいろな事を考えさせられた文章を抜粋して紹介します。

【脳研究から見た自我や意識の正体とは?①】東京大学 薬学部 池谷裕二教授 インタビューより

「ヒトと動物を分ける自我」

脳の研究は、ある意味で自己矛盾を孕んでいる。人間は脳を解明したいと思い、脳の研究をしているが、脳がそんなに簡単に解明できるほど単純なものだったら、我々はこのような複雑な思考をする事は出来ないはずなのだ。
ヒトが他の動物と大きく違う所は、自我、つまり「自分が心を持つ」と自分で感じている事。他の動物は、意識を自分の周りの世界に向けている。目の前に現れた動物が自分の敵なのか、それともエサとなるものか等を判断し、自分の行動を決めるためだ。

しかし、ヒトは意識のベクトルの先を、自分の外側だけでなく、内側へも向けている。そのため、ヒトは「私とは何か?」を考えるようになった。古代から人は自分について深く考える様に出来ている。現代人にとっては特に、「自分は何者か?」は大きな問題になっている。しかし、そんな奇妙な事を考えているのはヒトだけだ。

なぜ奇妙かと言うと、生命に必須な要素ではないからである。他の動物は「自分とは何者か?」と考えたりはしないが、生き生きと暮らしている。自我は、この意味で無駄なものと言える。

ところが、人間は自我を無駄なものとは思っていない。それどころか、ことあるごとに「自分探し」をやりたくなる。これは、自我を大切なものと考えている表れである。では、自我は本当に価値のあるものなのか?脳研究をベースに考えてみると、自我は単なる幻影かもしれないのだ。

僕自身でいうと、空手やボクシングなど打撃系の格闘技が好きで、若い頃はこれに自分のエネルギーを全部つぎ込みました。こういうとカッコいいのですが、全く才能はないし、体格もないしで、人様に自慢できる様ないい結果は全然残せませんでした。何もないままで終わった後に残ったのは全身に残るケガや故障ばかり。あちこちの靭帯はダメになり、そこらじゅうの骨折した所が変なくっつき方をしているため、今でも痛む所や上手く動かせない部分が多々あります。

周りが楽しく遊んでいる若い頃に全く遊ばず、あれだけエネルギーをつぎ込んで頑張ったのに、その結果残ったのは「マイナスしかない」という所が悲しいのですが、でも確かに見える部分ではそうなんですが、見えない部分、この自我という部分では、内なる領域に価値を作り上げて貰ったなと思います。

自分が自分である意味。アイデンティティとか、存在証明とか表現される部分。

他者に対して自慢するものではない。何か見える形での自慢には全くならないけれど、自分が自分自身を誇りに思えるとか、人生で苦しい事があった時の「拠り所になる何か」。

弱くて、脆い人間という存在の心を支えてくれるのは、この脳が生み出している自我が「自分とは何者なのか」を求め続ける中で作り上げていくもの、いわば「理想の自分像」みたいなものだと思うんですよね。動物のような、自然と一体になって生きられるナチュラルな強さを持つ生き物には必要のないもの、「自信」。

「自分はこの世に生きていていい存在なのだ」と心の底から思える感覚。

多分、いくら人類に近くてもサルはこんな事に悩まないんやろうなと思うのですが、人間はこの「自分なんて生きていていいのだろうか?」という想いに物心ついた頃から捉われ始め、思春期になるとこの感覚に苦しめ続けられる様に思います。

この苦しみから逃れさせてくれるものが、意味のない活動。文明ではなくて、文化なのだと思うんですよね。

文学だったり、芸術だったり、スポーツや武道、宗教であったり。

自分の内側で起こる葛藤と真正面からぶつかれるもの。

科学文明の様に、人類に直接的な役に立たないもの。人の生活には直接、意味がないようなもの。

それが、悩み多き若い頃の人間の心を救ってくれる様に感じます。

そして、若い頃にこの葛藤から逃げずに真正面からぶつかってきた人は、その人独自の味を持っていて、人間的魅力を感じさせる人間になれる様に思うんですよね。

反対に、若い頃から、人生に直接役に立つ物事にのみ、取り組んできた人、キャリアアップの為の勉強や資格を取ったりといった事にのみ、エネルギーを使ってきた人は、余り人間的魅力を感じさせない様な気がします。

「意味のなさ」が「意味を持つ」っていうんですかね、でも何かそういうものってある気がするんですよね。役に立つ事ばかりしてきた人って、一見すぐに役立つけれど、長い目で見ると、あんまり役に立たないというのか、味がない、人間的な深みを感じないって言うんですかね。

そういう人は、上の抜粋した文章にある「自分は何者か?」という「自分探し」の旅をしていないんだと思うんですよね。

それが、人間的な深み、魅力を感じさせないんじゃないかな。その人ならではの哲学を持っていない感じ。

苦しいけれど、人間は若い頃にエゴに苦しめられる時期が必要なんだと思います。

その苦しみは、自分を磨き上げ、自分の内面に他者とは違う個性や魅力を生み出してくれる。

人間は、エゴに苦しめられ、エゴに磨かれる。

そして、年齢を重ねた時には、そのエゴによって救われるものなんじゃないかなという気がします。

Follow me!