「わら一本の革命」①

とてもこうはなれないけど、理想の農業。福岡正信さんのこの本を初めて読んだ時は衝撃を受けました。


この方の理論は、体も環境も全てに共通するもので、自然の中にある力を如何にそのままの形で使うか?なんですよね。
人間が余計な事をやって、自然の力を抑えつけている。その余計な行為を如何に無くしていくか?それさえ出来れば、自然の力があらゆるものを生かしていく。


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「わら一本の革命」 福岡正信

飛躍し過ぎた言葉ともとれようが、地球の砂漠化は、人間が神なる自然から離脱して、独りで生き発展し得ると考えた驕りに出発するものであり、その業火が今、地球上のあらゆる生命を焼き滅ぼしつつある証(現象)だと言えるのである。

生命とは、宇宙神羅万象、大自然そのものの合作品である。その意味(過去)と意志(未来)を知らないまま、自然の対立者となった人間は自らの手で自然を利用して、生命の糧、食物を作り、生きようとした。この時から人間は、自ら母なる大地に反逆し、これを破壊する悪魔への道を進んだのである。

焼き畑に始まる農業の発達、人欲に奉仕する農法の変遷、文明発達の歴史が、そのまま自然破壊の歴史となっているのも当然であろう。

自然に流転という変化はあっても、発達はない。始めもなく、終わりもない自然が、しぜんに亡びる事はないが、自然は愚かな人智によって、いとも簡単に亡びてしまう。

自然破壊は、自然の生命と一体化した人間の生命の自殺行為であり、人間による神々の破壊、死をも意味する。

神が人間を見捨てる事はないが、人間が加味を見捨てて、滅亡する事はたやすいのである。

無明の悪魔の智を振りかざして、緑を失った大都市の上に築いた虚構の人間文明が、文字通り砂漠の空に描かれた蜃気楼として消え失せる日は近い。今、人間は帰るに所なき宇宙の孤児に転落するか、反転して神の園に還るか、その岐路に立つ。

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私は、百姓を、四十年近くやってまいりましたが、たとえばこの田圃(たんぼ)をご覧担って下さい。実は、この田圃は、この三十五年間、全く耕した事がない。化学肥料は全く使った事がない。病虫害の消毒剤も使っていない。田も耕さず、草取りもしない、農薬も肥料も使わなくて、米と麦を毎年連続して作っているわけなんです。今ご覧になっているこの麦は、少なくとも、反当り十俵は出来ている。部分的には、十二、三俵出来ているんではなかあろうかとも思います。これはおそらく、愛媛県の多収穫田に匹敵する出来だと思います。愛媛県で最高の収量を取れば、おそらく全国一ではないでしょうかね。


皆さんはどういう事をお感じになりますでしょうか。一口に言えば、農機具も要らない、農薬も肥料も要らない、そして、やり方といえば、ただ稲のあるうちに稲の頭の上から麦をばらまいて、稲を収穫した時に出来た藁を、その上に振りまいただけなんです。稲だって、この方法と同じです。


麦作りと米作りとが、全く同じやり方である、という事がこの農法の一つの特徴かと思いますが、実はもう一つ、もっと簡単なやり方があって、この隣の田には、もう籾がまかれているんです。麦まきの時に、麦と籾を一緒にまいている。つまり、正月が来る前にはもう、麦まきと籾まきが済んでしまっているんです。
この田圃にはクローバーがまかれている。麦まきをする前の十月上旬に、刈り取る前の稲の中にまかれたもの。順序から申しますと、この田圃には、十月上旬に稲の中にクローバーをまき、中旬に麦をまき、下旬に稲を刈り取り、十一月下旬に籾をまいて、稲わらを長いままでふりまいただけです。ほんの一~二人役で、米も麦も全部済ませてしまっている。ここまで来ますと、もうこれ以上簡単な米麦作りは、おそらくないだろうという事になってきます。
これは全く、普通の農業技術といいますか、科学技術の農法というものを否定してしまっている。人間の知恵の所産である科学的な知識を、まるっきり捨て去っている。人間が役に立つと思っている農機具とか、肥料、農薬、こういうものを一切使わない栽培方法ですから、これはもう人間の知恵と人間の行為というものを、真っ向から否定している、と言っても過言ではありません。少なくとも、それがなくても、それと同じ収穫、もしくはそれ以上の米麦が出来る実践例が、今、皆さんの目の前にちゃんとあるんです。

本の画像のようです

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