器の大きさ
昔からよく言われる事ですが、最近は人間を表す際の表現方法として「器」といった言い方を使わなくなってきている様な気がしますね。
「器が大きい」、「懐が深い」。
含蓄のある言葉って気がしてカッコいいと思うし、人を表すのにとてもいい言葉だと思うのですが・・・。
以下、明治大学教授齋藤孝さんの著書より、抜粋して紹介します。
【他人を受け入れる器量】
よく人を容れる雅量(がりょう)があって、はじめて人の欠点を責める資格がある。
雅量のある人から責められれば、人もその責を受け入れる。
反対に、人を容れる雅量のない人は、人の短所を責める資格がないし、こういう人に責められても、人は受け付けない。
佐藤一斎
人を受け入れる器量のない人は、他人の短所を責める資格はないし、もし責めたとしても相手はその人の言う事を聞かない。
要するに、「人を受け入れる器があるかどうか」という事を意外に相手は見ていて、器の大きな人から言われた言葉は聞くけれど、そうではない人の話は絶対に聞き入れない。
「お前にそんな事 言われたくないよ」と、なってしまうという事です。
ある人から言われれば素直に聞くのに、ある人から言われると聞かないどころか、むしろ反対の事をしたくなってしまう。
この違いはどこから来るのかと言えば、「言う人の器の問題だ」と佐藤一斎は言っています。
人は、多かれ少なかれ 「人に対して心を閉じる」傾向があります。
そこをいくら責めても、相手が心を開く事はありません。まず、こちらが心を開くこと。
そうすれば、人はその度量の大きさを見て、それに合わせて心を開きます。
ですから、自分の意見がなかなか受け入れられないという人は、人を責める前に、まず自分にきちんと「人を受け入れる器量がどれだけあるのか」を自問する事が必要でしょう。
「オレに人を受け入れる器量ってあると思う?正直なところどうよ」と。
「いや、ちょっと」と言われた時、あなたの心がどう動くかで、まさに器量が分かります。
そう言われて「むっ」としたら、自分に器量がない事を反省してみる必要がありそうです。
齋藤孝(明治大学教授)
最近は、「オープンマインド」といった表現をしたりしますが、「心を開く」のは本当に大事ですよね。閉ざしている人はすぐに分かるし、相手もサッと閉じてしまって良い事は一つもない様に思います。
自他同一」という言葉がある様に、昔の人は自然や他者と同調して、「自分を上手く活かす」方法を知っていたんでしょうね。
常日頃から、自分の体を使って仕事をしているから、「体=自然が生み出した一番身近な自然のもの」と「自分の心を調和・同調させて動く」という事を行っている。この心身調和が分かっているから、「心身一如」をもう一段階進めて、「心を開いて、他者や外部の環境と同調する」という事がそれほど難しくはなかったんだろうなと思います。
昭和初期くらいまでは、宗教家や武道家の中には、ある種、現代人から見れば、ちょっと超超能力めいた様な能力を持っていた人もいた様ですが、それはこういった能力が深化していったんだろうと思います。
「明鏡止水」という言葉がありますが、澄み切った心を持っていると、本当に相手の心の動きが鏡の様に自分の水面に映る。
近年、脳の解明が進んで人間の感情のやり取りや身体操作の上達におけるミラーニューロンの役割の大きさが言われる様になっていますが、こういった機能が使われているんやろうな~と思います。
ちょっと齋藤孝さんの本の内容からズレてしまいましたけど(笑)