バタフライエフェクト、全ては繋がっている

全ては繋がっているし、完全に独立した「個」なんて存在し得ないんですよね。「個が大事とか、個性を大事に」とかいった教育は、行き過ぎると危険な考えになると思う。勿論、個性は大事やけど、それも群れや環境との間で自然な調和を崩さない範囲での、個性や自由なんですよね。以下に面白いなと思った所をいくつか抜き出してみます。

「人を中毒にするシステム」について語ってはる所です。世の中には、この手法が蔓延していますよね。食べ物からゲーム、SNSの「いいね」まで、如何に人間の脳を中毒にさせて離れられなくさせるか?というゲームをやっている様な気がします。

中野 そう、うなぎを食べているときよりも、うなぎの匂いがしてきたときの方が、脳が活性化していたりするわけです。確約されているときよりも、確約されていないときに人間はワクワクする。

南川 悪徳商法はそこを突いてくるんですね。

中野 褒められることではないですけれどね。すぐれたエンターテイナーやマジシャンにはそれを悪用するのでなく、うまく利用して人を楽しませようとする人もいますね。
学習によって起こる強化のことを表す「強化スケジュール」という理論があります。例えばラットの実験で、これを押すとエサを「得られる」というボタンと、これを押すとエサを「得られるかもしれない」というボタンを用意すると、「得られる」ボタンを用意されたラットはお腹が空いたときにだけ押すようになるんですが、「得られるかもしれない」の方を用意されたラットはボタンを押し続けるんです。
つまりこの現象は「かもしれない」の方がより中毒性が高いことを示しているのではないか、と解釈されています。

中野信子
 例えばカジノでは、ゲームにはある確率で当たり外れがあり、必ず報酬が得られるようには設計されていません。昔、そういうゲームも存在したようなんですが、つまらなくて誰もやらないので廃れてしまったそうです。よく考えてみれば、必ず報酬が得られるゲームなんて、ゲームじゃなくて、ただの作業ですよね。難しすぎてもダメ、やさしすぎてもダメ。当たる「かもしれない」というきわどいところに、ハマるポイントがあるんです。ハマりやすくなる当たりの割合はすでに知られているんですが、あるときは3回に1回、ある時は10回に1回と変動比率にすると、さらに強化が起こりやすいことがわかっています。

ささいなことが世界を変える。目[mé]×中野信子

以下は「個で成り立つ存在はない」という事について語ってはる所。宗教やスピリチュアルにも通じる話ですよね、科学がどんどん発展すると、結局は宗教と重なっていく。

出口王仁三郎の言葉で「宗教と科学は相反しない。今のところ、科学の方が遅れているだけであり、進めば同じになっていく」とか、「宗教と科学は共に宇宙の法則を語っているだけで同じ。違いは、そこに”何らかの意志”の存在を認めるか、否かである」みたいなものがありますが、多分そうなんやろうな~と思います。以下は中野さんの言葉。

人間は自分の体を100パーセント自分でコントロールしている、という感覚を多くの人は持っていると思うんです。でもじつは、そうではないんですよね。
我々の思考や行動パターンには多くの要素がかかわっているし、体さえも完全に独立しているわけではなく、食事や呼吸などによって常に外界と物質的にもやり取りがされている、開放系です。
時空間の軸を大きく延長して巨視的に見れば、人間も天気の一部である、ともいえる。私たちが吐いた息がいつか雲になるかもしれないし、雨によって生かされている部分もあります。
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私の一番の関心事も個と集団の関係なので、関心領域が近いですよね。
個人は個人の意思で動いていると思いがちだけど、むしろほとんどの部分はそうではない。誰かの影響を受けずには存在できないんです。
完全に一個人で可能な意思決定というのもほとんどない。環境からの影響、それから複数の人の意思、周囲の人との緩やかなあるいはタイトなつながりによって、個人の行動は決まります。
 個の意思と集団の意思ってすごく違いますよね。一般には、流されずに個の意思を優先させるのがカッコいいというような、耳障りはいいのだけれど根拠のよくわからない煽り文句が流布されたりするのですが、いざ有事となったり、災害が起きたり、経済が危機的な状況に陥ったりというときには、主張の強い個から排除されていく傾向があります。
集団でいることのメリットが大きくなる方向にシフトした状況下では、個の意思は全体の意思に飲み込まれてしまう。

以下は、バタフライエフェクトについて語ってはる所。チヨウ一匹の羽ばたきですら、この世界には何らかの影響を及ぼしているのだ、という様な考え方の事ですね。これは僕、とても好きな考え方なんですよね。

中野 ゴールを入れられてしまうチームが入れられることに加担するような状態というのは、もしかしたら集団催眠みたいなものが起きている状態なのかもしれません。砂漠の真ん中を走っていて、障害物があるとそれに当たってはいけないと思っていても、障害物を見ているとなぜかその方向に進んでしまうという現象が知られています。人間には、こうなってはいけないと思ってしまうと、否定形でありながらそれを意識してしまって、逆説的に「そうなってほしい」「そうなった方が安心だ」と思ってしまうところがあるようなんです。事故に遭いたくない、コロナに感染したくないと思っていても、ネガティブな情報でも意識することによってそこに寄って行ってしまう。

南川 コロナのことを考えていると、バタフライエフェクトの話を思い出すんですよね。蝶の羽ばたきが、どこか遠くの何かに起因しているという。プロジェクトをやっていると、想定からズレていく周期に入っていくことがあるんですね。東京オリンピックを巡って起こり続けたいろんな問題もまさにそんな気がして、ある人間が遠くお茶を飲む動作なんかが、この展開に影響しているのではないかなどと思わずにいられなくなるんです。

誰かが何か少し考えて、何となく行動した事でも、この宇宙にとってならかの意味があり、何らかの影響を与えている。これはあると思うし、それが人生の面白いところじゃないかとも思うし、だからこそ一人一人が自分の人生に責任を感じなければならない部分でもあるんじゃないかなと思います。

「責任があるから、面白い」と感じられたら、人生は楽しくなるんじゃないかなと思うんですよね。

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