賞罰教育の影響と誉める事の弊害

アドラー心理学の本より抜粋。
本のタイトルはメモしてなかったから分からないんですが・・・。

【賞罰教育の影響】

大抵の人は、子供を育てる時に叱るか、あるいは誉める事しかしないと言ってとよい。 大人が子供に命令するために力を使うと、大人の圧倒的な力に屈した子供は、勇気を損なわれる事になる。自分で判断する力を育む事が出来ず、確かに大人から見ればいい子になるが、自分の判断で進んで適切な行動をしなくなり、大人の顔色をうかがう様になるからである。

また、大人は子供よりも知識があるからと、子供の生き方に影響を与え、子供を大人が望む方向へ導き、子供もそれに従った事があったかもしれない。

確かに、大人と子供は「同じ」ではない。その知識と経験は「同じ」ではない。また、取れる責任の大きさも違う。 しかし、だからといって。大人が子供よりも優れているという事にはならない。知識と経験が違っても、それは「学ぶ時間が長かった」に過ぎない。その違いに関わらず、子供と大人は対等である。

大人がこの様な対等の意識を持って子供を育てたり、教えてきたのであれば、子供は、勇気のある、自立した子供になるが、さもなければ、勇気をくじかれた自立心のない子供になるかもしれない。 自分で何かしようとしても、大人が、力でなくとも、経験や知識の優位を根拠にそれを止めるという事があれば、自分で考えて何かをしようとは思わなくなる。

大人の助言が正しく、それに従えば、失敗する事は未然に防ぐ事が出来る事があるだろう。しかし、失敗する事によって学ぶ事も多々あるのである。それなのに、失敗を防ごうとする大人の対応は、子供を臆病にし、失敗しない為に、大人の判断に頼る様になる。 この様に育った子供が、自分には課題を解決する能力がある。あるいは、先のアドラーの言葉を使うと、自分に価値があると思う様になるとは考えられない。

大人が子供を叱る時、子供に対して、対等な関係とは見ていない。対等と見なす人を叱ったりはしないからだ。必要があれば、注意はするが、感情的に叱ったりはなしない。 人が取り組むべき課題は、多くは対人関係に関わるが、叱る大人を前にして子供達が萎縮する様な権威主義的な教育は、大人と子供の関係を「疎遠」にする。そうなると、子供は大人を避ける様になり、対人関係という人生の課題を回避する。そして、子供は大人を「敵」と見て、「仲間」とは見なくなる。

【誉める事の弊害】

他方、叱らないという人は、子供を誉める。誉める事は、余りに一般的に行われているので、その弊害を言うと、大方の人は驚き、困惑する。

誉めることの弊害は多々あるが、「誉められないと適切な行動をしなくなる」、「自分の行動の適否を他者の判断に委ねてしまう」事があげられる。 また、最初は、自分を誉める人を好むかもしれないが、誰かに賞賛されず、支えられなければ、何も出来ないという事に思い当たった人は、自分に能力があるとは思えなくなる。

たとえ誰も自分がした事に正当な評価をしてくれなくても、自分がした事に自信を持ち、自分に価値があると思える様にならねばならない。それを理解している人、「大人と子供が対等である」という事を理解している人は、子供を誉めない。

この様に、叱られて育つ場合も、誉められて育つ場合も、他者の評価を気に掛ける様になるという点では同じなのである。その姿勢が、課題に直面する勇気を挫き、課題から逃避したり、あるいは評価される為には手段を選ばない、という様な事が起きる。

これをしたら叱られるだろうか、あるいは誉められるだろうか、という様なことばかりを気に掛けていては、結果はともあれ、自分の判断で動き、課題に取り組む事はなくなるだろう。

また、賞罰教育は、競争関係を引き起こす。競争ではなく、協力する能力こそが、人が勇気を持って幸福に生きるために必要である、とアドラーは言う。評価を求める事が、他者との関係において競争を引き起こす事は明らかである。 育児・教育において、誉める・叱るという事が多用されると、「誉められる・叱られない子供」は「誉められない・叱られてばかりいる子供」よりも優れていると見なされ、競争関係が生じる事になる。

アドラーは優越性の追及そのものは否定しないが、直面する課題を個人的な優越性を得るという方法で解決したいと思ったり、それが並外れた野心という形で現れる場合、子供は困難な状況に置かれる事になる。 成功したかどうか、という結果だけが重視され、困難に立ち向かい、それを切り抜ける力が重視されなくなるからである。しかも、成功しても、他者に認められるのでなければ満足せず、他人の意見に左右される。困難に立ち向かい、それを切り抜ける努力をしない。アドラーは言う。「ほとんど努力する事なしに手に入れた成功は滅びやすい」。

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