桜井章一さん。
この方の本は何冊も読みましたが、本当に凄い方だと思います。
裏社会での雀士で無敗、その中でほとんどの宗教家が辿り着けない真理に行き着いた方ですよね。
様々な武道家や格闘技選手がこの方には師事していますね。極真空手の岡本徹選手、や総合格闘技の選手も何人も指導を請いに行っているそうですし、ヒクソン・グレイシーも親友だそうです。
現代人の精神的なひ弱さ・脆さは、現代社会の人間独特の欲=「結果が全て」という思考に振り回されてしまう所にあるのだろうと思います。
これは武道と格闘技の存在意義の違いにも通ずる様に感じます。
武道は、「負けない・生き残る=自分の生命を守る」ためのもの。自分軸と言えると思います。
格闘技(スポーツ・競技)は「勝つため=他者・社会からの評価を受ける」ためのもの。他人軸ですね、他者からの承認を得たいわけですから。
試合は、「このどちらを動機・目的として出ているか?」で、心の中での位置づけが全く変わります。
相手に勝ちたいのか?=他者や社会からの評価・承認を求めている。他人軸の生き方。
それとも、自分の弱さに打ち克ちたいのか?
=他人からの評価ではなく、「自己評価=真の自信」を獲得したいのか?自分軸の生き方。
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「負けない」と「勝つ」はまったく違う
「負けない」と「勝つ」──。
勝負や人生に対するこの2つの姿勢は、結果的には同じことを意味していても、本質においてはまったく別物である。
たとえば、「強さ」という点に関しては、最終的に「負けない」のほうが「勝つ」よりも勝っている。「勝ちたい」という気持ちは、根底に「脆もろさ」を抱えているからだ。
「勝ちたい」という気持ちは、欲望と同じで限度がない。
限度がないから、それを達成するために汚いこと、ずるいことなどにも目をつむってしてしまう。勝者の裏側には必ず敗者がいるものだが、そうした敗者の存在や状態には目もくれず、勝てそうとなれば際限なく相手を叩きのめすようなやり方をしてしまう。
そこに「満足感」「納得感」はあるか
もう一方の「負けない」という気持ちは、人間の素すの部分、本能に近いところにある。
負けなければいいわけだから、限度をわきまえており、相手をとことん追い込む必要もない。相手がちょっと弱ればおしまいとか、自分に必要なものが得られればそれで十分、という終わらせ方ができる。
つまり、「負けない」という気持ちには、「もうこれでいい」という満足感、納得感がある。
自然界の生き物の本能に学べ
自然界の生き物はみな、熾烈しれつな生存競争の中でどうやって生き残るかという本能のレベルで生きている。彼らには当然「勝ちたい」という欲望はない。あるのは、敵や環境に対して「負けない」という本能だけである。
もし、彼らに「勝ちたい」という欲望があったとすれば、どうなるか。
天敵の餌食えじきとなる生き物は限りなく増え、最後は生態系の上位にある生き物だけが生き残ることになってしまう。いや、実際にはそれすらもない。
捕食する獲物がいなくなれば、当然、それを捕まえて生きている生物も死に絶えるだろうし、多様性によって成り立っている自然界の秩序が根底から崩され、地上から生命を持った生き物はいっさいいなくなってしまうだろう。
そんな光景はSF的な空想でしかないが、人間は実は自分たちの社会でこれをやってしまっている。自然界の生き物を例にするとよくわかるが、みながみな「勝ちたい」という欲望で生きていけば、環境問題をはじめ、そこにさまざまな問題が生じるのはきわめて当たり前の話なのである。
この「生存するために負けない」事と、「他者に勝ちたい」の違いについて、京大のゴリラ研究をしている山極さんが書かれていたのを覚えています。動物に本来、ある「負けたくない」は「生き残りたい・群れのメンバーと対等で居たい」であって、「他者に対して優越したい」というのではないのだ、と。
人間社会が後付けで作って来た価値観で、自然なものではないんでしょうね。
そして、この後付けの価値観・思考法で現d内人の脳は狂わされている様に思います。