頭と体を切り離すと、支配しやすくなる

【頭と体を結び付ける】

いい記事を読んだので、紹介。さとうちひろさんのFacebook記事。

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頭と身体を切り離してしまうこと。

まさにこれが、支配のために利用された宗教がやってきたことだ。身体的な欲求が悪いことだとして罪の意識を感じさせ、頭と身体を切り離してしまった。

しかし、身体の欲求というのは、生きていくために必要なものなのだから、これを抑圧しようとしたら、延々と自分と戦い続けることになり、罪の意識を感じ続けることになる。そうやって、人からあらゆる自尊心を失わせ、自分が愚かな罪深い人間だと思わせて、自分で考える力を奪ってしまったのだ。

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ホンモノの宗教は、この文章にあるのと反対で「頭と体を結び付ける」。

ヨガという言葉の意味自体がそうですし、神道の極意も「結び」。

反対に在るもの、陰と陽、剛と柔、上と下、右と左、表と裏、男と女など、正反対にあるものを結び付ける事でエネルギーを生み出す。

エネルギーを生み出すシステムを教えるものと、それを隠し、奪うもの。ホンモノとニセモノの違いは、ハッキリとしている。

以下、全文を転載。

【どっちが偉いのかで支配する】

この3年間、人々がどのような巧妙なやり方で支配されているのかを、とことん見せられてきた。恐怖を掻き立てるイメージをメディアで流して、人をパニックに陥らせると、多くの人はそこで差し出された解決法に、考えもなく従ってしまう。この心理メカニズムを使えば、自分の身を犠牲にするようなことまで、自分からするように仕向けてしまうことができるのだ。そして、こうした手法を、メディアや政府が、思うままに大衆を操作するために使っていることがわかった。
ところで、私たち人間には、本当は誰にでも状況を正しく見通して、正しく反応する能力がある。パニック状態のときでも、何が何だかわからないまま、ちゃんと脱出口へまっすぐに向かっていたりする。それは、頭で考えるとか、情報を処理するとか、そういうレベルのものでさえない。導かれたとしか思えないようなことなのだけれど、それは私たち自身が内に持っている知覚であり、宇宙意識とかハイヤーセルフとか言われるものだ。
古代の人たちは、こうした宇宙意識を当たり前に持っていて、だから植物や動物と話したりするのも普通にできたし、たがいにテレパシー的に交流することもできたらしい。地中の水脈や鉱脈を感じ取ったり、天候を動かしたり、巨大な岩を動かしたりすることもできた。こうしたことは、アボリジニみたいに自然とともに暮らす人々なら今でもできるし、そういう人たちと何ヶ月か一緒に暮らしていたら、誰でもできるようになってしまったりするらしい。
支配者は、つねにこの力を封じ込めようとしてきた。そして、人々が自分で判断するのではなく、支配者に従うように仕向けてきたのだ。政治支配に宗教が利用されてきたのは、まさにそのためだったとも言える。
アフリカや南米を植民地支配しようとしたヨーロッパ人が、まず初めにやったことは、原住民をキリスト教に改宗させることだった。人々に、自分で考えることなどは低いことでしかなく、キリスト教が教えていることこそは正しいことなのだと思わせて、それに従わせたのだ。そうやって、もともと現実の状況を正しく見て、正しく反応できていた人たちが、その力を自ら封じ込めてしまうことになったわけだ。
いかにして、自分はバカだと相手に思わせるかが、支配のカギなのだと思う。それで、複雑な論理を延々と語ったり、相手が知らない難しい言葉を連発したりする。そして、こういうことを理解できるのが当たり前の人間だみたいに思わせたり、こんなことも知らないなんてバカなんじゃないかとほのめかしたりする。これは、詐欺師もよく使う手だ。しかし、この3年くらいは、主流メディアや政治家、買収されているらしい専門家たちも、まったく同じものの言い方をしていた。SNSに出回っていた情報工作員たちも、だいたいこういう手を使っていた。いかにも事情に通じているかのように、あれこれと難しい話をして、こんなこともわからないのなら、自分で判断する力などないと思い込むように仕向けるのだ。
古代ギリシャでは、弁論術で相手を言い負かした方が支配していた。だから、詭弁を使って、相手の思考を誤誘導し、感情に訴えかけて、あることが正しいと思い込ませるようなことが、さかんに行われていた。要するに、どっちが偉いのかを、詭弁で争っていたのだ。
そこで、詭弁で語ってくる相手に向かって、「それは本当にそうなのか?」「それは本当にいいことなのか?」と問いかけていくことで戦っていたのが、ソクラテスだった。彼は、相手の論理のどこにごまかしがあるのかを見抜いていて、それをそのまま暴くのではなく、質問して相手に考えさせたのだ。
詭弁を使って語ってくる相手も、騙そうとしていたわけではなくて、そうした社会に生きていて、自分の感覚から離れてしまっていたのだと思う。そういう相手に対しては、これは違うと説得するよりも、本当にそうなのかを自分で考えさせた方がいい。それでソクラテスは、相手が実は自分で考えていなかったことに気づくまで、問い続けていたのだ。
古代ギリシャにかぎらず、私たちはつねに、本質から離れて、どっちが偉いのかで争っているようなところがある。話し合うというのは、もともとは違う見解を知るためにすることだと思うのだけれど、見解が違うとなると、「バカなのは自分なのか、相手なのか?」みたいな争うモードになっていたりする。政治論議ならば、自分の政党とか自分の派閥とかの方が正しいということを、相手に認めさせるために言い合うことになり、宗教論議では、自分の宗派の論理を語るばかりだ。どちらも、権威の人が言ったことを言っているだけで、自分の考えで語っているわけではない。
それで、自分が権威としている人物が、どういう地位についているとか、どういう賞をもらったとか、何億円稼いだとか、あるいは空中浮遊ができるとか、手から物を出せるとか、そういうことを言い合って、どっちが偉いのかを争っていたりする。こういう人が言っているのだから、これが正しい、という話なのだ。本当に正しいのかどうか、自分で考えているわけじゃないし、わかっているわけでもない。
実のところ、ある意味どうでもいいようなそういう話で、意識を本質から逸らされていることがとても多いと思う。そして、そうやって本質から意識を逸らされるたびに、私たちは自分の健康な思考力や宇宙意識を封じ込めて、誰かの論理に自分を従わせてしまうのだ。
この二千年ほどの歴史の中で、人類は絶えず自分が偉い方になろうとして、ありとある奇妙な努力をしてきたのかもしれない。覚醒者と呼ばれるようになりたいからと、空中浮遊ができるように修行を積んだり、賢い人だと言われたくて、難解な専門用語が並んでいる複雑な論理を覚えたり、といったことをだ。そういうことが、意義のあること、価値のあることだと思えていたのだけれど、結局のところ、そうしたことこそが、私たちの内なる知覚、すべてを正確に見通せる能力を封じ込めてきたのかもしれない。
状況を正確に見通して判断する能力、宇宙意識といったものは、頭頂チャクラだとかサードアイチャクラだとか言われるのだけれど、この封じ込めは、頭の真ん中のところ、松果体のあたりにあるらしい。ちょうど頭骨と背骨が繋がっているところ、頭の後ろの頭骨の下にあるくぼみのところに、オルタ・メジャー・チャクラというあまり知られていないチャクラがあるという話を、今日聞いたところなのだけれど、どうもこのチャクラが宇宙意識の封じ込めの中心になっているような気がした。
オルタ・メジャー・チャクラは、脳と脊髄が繋がっているところで、だから頭と身体を繋ぐ神経ネットワークの要なのだ。蛇はここをつかまれると動きが取れなくなる。いわゆる「首根っこをつかまえる」ような状態が、オルタ・メジャー・チャクラを封じ込めることでできてしまうのかもしれない。
頭と身体を切り離してしまうこと。まさにこれが、支配のために利用された宗教がやってきたことだ。身体的な欲求が悪いことだとして罪の意識を感じさせ、頭と身体を切り離してしまった。しかし、身体の欲求というのは、生きていくために必要なものなのだから、これを抑圧しようとしたら、延々と自分と戦い続けることになり、罪の意識を感じ続けることになる。そうやって、人からあらゆる自尊心を失わせ、自分が愚かな罪深い人間だと思わせて、自分で考える力を奪ってしまったのだ。
それで、オルタ・メジャー・チャクラを意識して解放してみると、今まで、こういうのが偉いとか高いとか言われるようなことのために、いかに多くの力と時間とを使ってきたのかということが、ヒリヒリした感触とともに湧き上がってきた。私たちは、つねに上へ上へと駆り立てられ、それが成長であり進化であるように思い込んできたのだ。だけど、それは遥か高みにある虚像に惑わされて、自分から離れていったことに他ならなかった。そのことが、ヒリヒリした感触とともに感じられた。
ルネサンスは、中世の世界を支配していたキリスト教会の縛りから、人間らしい感覚を取り戻そうとすることから始まった。締めつけられていた時代があれば、その次には必ず解放されて元の姿を取り戻す時代があるのだ。多くの人が、自分を破壊するようなことになっていることにも気がつかなくなるほどに、自分の感覚と切り離されてしまった今、私たちはついに私たちの本当の姿、本当の力を思い出そうとしているのかもしれない。

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写真も記事より頂きました。

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