自由とは悩む事と同義
為末大さんのFacebook記事を読んでちょっと考えました。
以下の部分は、自由が増えてしまったが故の近代人の悩みですよね。
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近代では昔よりも個人の自由は拡大し素晴らしくなったと思いますが、一方でこの概念が強くなりすぎると今度は、自由に選択できたはずなのに「うまくいっていないのは全て自分の責任である」という自己責任感も強くなっています。
さらにアイデンティティの悩みも深くなります。
近代では自ら人生を作り上げてそこにアイデンティティを見出すわけですが、それを個人でやらなければなりません。
自分で選択できないときは、民族の物語、宗教の物語、国家の物語に身を委ねることがアイデンティティになっていました。
「自分で自由に選べる」ことと「自分とは何者かを悩む」ことはほとんどセットです。
「自由である」=「悩み苦しむこと」ですもんね。
これが分からない内はアホというか、子供なまんま。
それなりに痛い目に遭って、苦労もして、これが分かって来ると、「悩みながら自分の生き方を選択していく事が楽しいよね」と言える様になってくるのだと思います。
文章にしてしまうと簡単ですが、そこに至るのに結構、悩み苦しみますよね。「自分を知る・自己を確立する」という所へ到達するまでは。
僕は結構な時間、かかったなあと思います。
そこに至るために、わざわざ苦しい目をして武道の修行をしていたんやろうなあと思うと、感慨深いものも感じますね。
以下、為末さんの全文を転載しておきます。
全国の長文ファンの皆様お待たせしました。GWで充電して帰ってまいりました。
よく「〇〇ガチャ」という表現があります。自分では選択できない運で決まっているというのがこの言葉の背景にありますが、実際には人生で選択できることは多くありません。つまり「ガチャ」が基本で、時々自分に選択ができる余地が生まれるという程度なのだろうと思います。
まず私たちは自分で選んで生まれていません。I was bornに示されるように両親によって受け身で世に生を受けます。選ぶ国も家庭も選べません。持って生まれた身体的特徴も選べません。7フィートを超える身長の米国の成人男性の六人に一人がNBAプレーヤーだと言われています。人生の前半で体験することも自分では選択しておらず、いわば「ガチャ」で決まっています。
つまり多くの条件が出揃った上で、残されている余白で何をやるかが人生の自由なのだろうと思います。
昔は身分制度もありほとんど個人には自由がありませんでした。「夢」と「努力」という単語は自由という概念がなければ生まれません。ですから人生の責任は個人ではなく社会環境、または神に委ねられていました。
近代では昔よりも個人の自由は拡大し素晴らしくなったと思いますが、一方でこの概念が強くなりすぎると今度は、自由に選択できたはずなのに「うまくいっていないのは全て自分の責任である」という自己責任感も強くなっています。さらにアイデンティティの悩みも深くなります。近代では自ら人生を作り上げてそこにアイデンティティを見出すわけですが、それを個人でやらなければなりません。自分で選択できないときは、民族の物語、宗教の物語、国家の物語に身を委ねることがアイデンティティになっていました。
「自分で自由に選べる」ことと「自分とは何者かを悩む」ことはほとんどセットです。
自由とアイデンティティには矛盾があります。もし自分で選べるのなら今日この瞬間からなりたい自分になってしまえばいいわけで、過去は一切関係なくなります。しかし、それでアイデンティティを感じる人はほとんどいないでしょう。自我と他者の認識が揃うことでアイデンティティは確立されますが、自分だけいきなり宣言してもそれをアイデンティティだとは感じられません。
むしろアイデンティティとは自分の意思では変えられない「ガチャ」の部分に目を向けてそれをどう物語り、意味づけるかにかかっています。アイデンティティの強さはいわば自らの物語の一貫性で決まると思います。それは完全な創作物ではなく、自らで選択していない受けとったものたちをどう解釈するかにかかっています。コネクティングドッツです。
私も中年期に入りました。いわゆるミッドライフクライシスの解決は「私とは何者か」の物語の再構築にかかっていると感じています。