日本は年寄り文化

下の記事を読んで思い出した事があります。

「明治維新」以前以後の「大きな差」…「村八分」という現象は昔はなかった

昔、「日本は年寄り文化であった」と亡くなられた上岡龍太郎さんがおっしゃっていたのを聞いてビックリした事があります。(諸説あります→「月代」ってなんて読む?)
幕末までの「月代(さかやき)」は、「男が歳を取って禿げてしまった様子に合わせたもの、それがカッコいいのだ」という文化があったから出来たものなのだ、と。

それまで全く知らなかったので、凄く驚きました。
戦後の「若さこそ素晴らしい」「少しでも若く在りたい、若作りしたい」、そして「若者にすり寄る」様な風潮は醜いのだ、という様な事をおっしゃっていて本当にビックリしたし、凄く恥ずかしく感じたのを覚えています。

武道や稽古事で、「稽古」と言うのも、「古(いにしえ、先人の教え」といったものを「稽(考える)」という意味なのだそうです。

伝統を考え、それを後世に伝えていく。
味わいのある言葉ですよね。

以下、一部抜粋して紹介します。

畑中 いまでは、『忘れられた日本人』という魅力的なタイトルにすっかり覆い隠されてしまっていますが、連載時に「年よりたち」だったのはとても重要なことだと思います。

「年よりたち」というのは、民俗学の用語でいうと「古老」のことですが、宮本のここでの興味は、まず年寄りたちがその時点において、ある共同体においてどういう役割を果たしてきたかという点にあります。それに加えて、そうした年寄りたちのもっている民話的世界が、現在の生活とどのように地続きになっているのかということが宮本の最大の関心事でした。

ここで言う「年より」は、必ずしも「年老いた人」を指しているのではなく、むしろ「さまざまな経験を積んだ人」という点に力点があるのだとわたしは思っています。かつての共同体的世界で多くの体験を積み重ねた人たちでありつつ、近代化がもたらした変化も経験している。宮本は、そのふたつの時代のなかでの経験を積んだ人たちを「年よりたち」と呼んだのではないか。そこには、いわゆる明治維新という過渡期の経験を語れる人がどんどんいなくなってしまったことに対する危機感が反映されてもいたと、宮本自身が書いています。

若林 近代化以前と以後の差分を明らかにしたいということでしょうか。

畑中 そうですね。例えば、宮本常一は、「村八分」という現象あるいは事態は、近代化以前の近世の時代にはなかったという言い方をしています。

若林 近代以降に一般化したものだと。

畑中 「村八分」という仕組みは、近代以降に法律というものが浸透していくことを通じて一般化していったものだと宮本は考えていました。それ以前は村八分というものはなくて、共同体のしきたりを守らない人であっても、ある種の包摂の仕組みがあったと言うんですね。

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