闘争心と生存本能
脳は「快・不快」で判断し、行動するシステムになっています。
「心地いい所、状態へ行きたい」
「深いな所、状態からは逃げたい」
これは人間だけでなく、生物の根幹にあるシステムと言えると思います。
よく闘争心というものを本能的なものとして言われる事がありますが、僕はそれは間違いとまでは言えないけれど、人間が後に後付けで作った言葉であって、その正体は「生き残りたい」という欲なのだと考えています。
サバイバル、生存欲求というもの。
「不快な所・状態から逃げたい」とアドレナリンが出ている状態。
だから、この状態って緊急事態で、物凄く不快。生命の危機ですから、すぐにでも逃げたい。でも、もし逃げられない状態なら、仕方ないから闘う。
これが武道の元々の考えだと思っています。
あ、この段階では武術の方が近いかな。
この、「生き残ろうとする本能の意思により、仕方なく闘う」という状態に、ドーパミンという快楽物資が加わっている時を、「闘争本能」と呼んでいるんじゃないかと思います。本当に命がかかっている状態=「殺るか、殺られるか」なんて時が快であるわけがないので、「この不快な状態から逃げたい」という意思のみで闘っているだけですしね。
武道はこれを昇華させて、人の道=倫理・道徳、さらに進むと哲学、さらに高次元に進むと宗教と重なっていく。武士道もこれですよね。
その逆が、見た目は似ているというか、同じ様に他者と闘っている格闘技(=競技スポーツ)で、これは生き残りのためにあるものではなくて、「達成感や充実感」、「他者からの評価を受ける=承認欲求」ためのものと言っていいと思います。
ホルモンで言うと、達成感や充実感の方がドーパミンという快楽物質です。承認欲求の方は、これにプラスしてオキシトシンの作用があるかな?と思います。
これらの快楽物質の中毒になっているから、「続けてしまう、辞められなくなる」んですよね。「もっともっとこの充実感を味わいたい、他者から称賛されたい」、人から評価され、チヤホヤされている状態が心地いい。社会的動物ならではの動機ですね。インスタなんかで、「イイね」が欲しいのも全く同じ。
でも、こういう状態を超えた人も居ます。スポーツの世界では、イチローさんや大谷選手なんかは、それが昇華されて武道的=生きる道になっていますね。昔ながらの、職人気質の人はそういった領域で生きている人だと思います。他人から評価される事は勿論、有り難いけれど、それと自分の仕事や自分という人間への評価は直接には関係ない。いい意味で自分の中で完結している生き方。
入口がどこであっても、人間力を磨いている人はここへ到達する。よく「日本人は何でも道にする」と言われますが、これこそが日本人の定義、ある意味では「日本教」と言えるのかもしれませんね。