「禍を通過させる・味わう」という智恵
【体を通過させるという智恵】
コロナ感染というのが自分の身近にも複数聞こえる様になり、ちょっとそれに関連した話題を書いてみたいと思います。
安保先生、内海先生や真弓先生といった自然派の先生方もおっしゃいますが、人間の体の仕組みって本当に凄いんですよね。勉強すればする程、よくこれだけ出来てるもんやな、言ったい誰がこんな上手いこと作ったんやろう?と思えるほどです。
勿論、その造物主は「自然の力=神様」ですから、「そら、パーフェクトに決まってるわな!」という答えに行き着くのですが。
そして、その完璧なシステムを邪魔しているのが、人間の小賢しさというか人間の知識やったりします。
天理教ではそういうのを、「人間思案」と呼んでますね、確か。 全部平仮名やった気がするな、「にんげんしあん」って。
人体って本当に賢くて、
そして「体に取り込む」
という作業をします。
それはフィジカルな面だけではなくて、メンタル面でも同じ。
一見、嫌な事や辛い事をあえて呼んで、自分の体や心を通過させる。
自ら禍を呼んで、「通過=体験させる」んですよね。
その経験により、免疫を得て強くするという事を行う。
地球における台風や地震もそうですが、それを浄化作用と言いますよね。
水や空気の入れ換え、そして氣の巡りを良くしている。
風水とかもそうですし、大昔の
アーユルヴェーダとかもそういう智恵ですよね。
日本の古神道にもそういった知恵がいっぱいある。
一昔前は有名だった、野口式整体の野口晴哉先生とかもそういう知恵を語っておられますね。
中村天風さんとかもそうですし、天理教とか大本、その分派である生長の家、救世教とかにも同じ様な教えがある。
人間は頭デッカチなので、嫌な事や危険を避けようとするけれど、それって逆にダメなんですよね。
体も心も、本当はそういうものを欲している。
人間が武道やスポーツ、冒険、修行なんかを求めるのも、その根底にはそういったものがあると思います。
そしてそれは、文科系でも同じやと思うんですよね。勉強、研究、舞踊やモノ作りの修行なんかも、自分が体験した事がない何かを求める行為。肉体的な危険は伴わないかもしれないけれど、そこには「未知の体験」という怖れみたいなものを求める気持ちがあるのでしょう。
戦前には当たり前だった自然療法とかを学ぶと、そういう深い智恵みたいなものがものがあるのが普通なんですけど、戦後、アメリカに統治されていた時代に全部隠されてしまいましたから、今の日本人は普通に生きていると全く知る事が出来なくなりましたよね・・・。
【「味わう」ということ】
自分の身に起こること、人生に起こることは全て、それがプラスであれ、マイナスであれ、どんな事であっても、「心と体を通して”味わう”」という事が必要なのだと思います。
一見、マイナスに見えるもの も、その経験をしっかりと味わう。
そうする事で、それが本で読んだり映像で見ただけの知識とは違って、体を通して血肉となっていく。知恵となっていくのだと思います。
昔の人は、そういった知恵を「人生の肥やし」と呼んでいましたね。
それがどれだけ、その人の今後の人生にとってプラスになっていくのか?
人間としての「深み」を増してくれるのか?
ちょっと前までの教育では、そういった深みのある教えは当たり前の事やったはず。
「陰陽の『陽だけ』を欲しがる様な、浅はかな人間にだけはなってはならぬ」というのが先人の教えやったと思うし、それこそが日本の教育の神髄やったはずやと思うんですよね。
少しでも、そういった深みのある教えを受け継いでいきたいし、自分もそれを伝えていく役割を果たしたいなと思います。