認めてもらう側から、認める側へ

これ、本当にそうですね。

「見て欲しい、認めて欲しい」はいつまでも子供のまんまの状態。

心を磨く、精神を成熟させる、とは、他者からいちいち承認して貰わなくとも、自分自身でそれを済ませられる人間になる事なのだと思う。

「自分で自分のご機嫌を取れる」とよく言われるけど、それと同じですよね。自分で自分の心をコントロール出来れば、他者に機嫌を取って貰う必要がない。

すると、他者の態度にいちいち振り回される事がない。

軸の通った人、自信がある人と見做される人はそういう成熟した状態には入れた人の事を言うのだと思う。

そして、そういう本質的な自信を持った人から「認めて貰った人」は、その人の側から離れたくなくなる。

「人たらし」と言われる人は、そういう人間としての魅力を持っている人を言うんでしょうね。

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「優秀さを示さなければ、それを他者に認めさせなければ、生きていけない」という恐怖心を植えつけられた「呪い」。それに私達は苦しめられているのではないか。大人になってもなお。

けれど、実は大人になると、モードを逆転させる必要がある。認めてもらう側から、認める側へ。

子どもや部下のパフォーマンスを認め、努力を認め、その苦労をいたわり。自分を認めさせるのではなく、自分が相手の存在を認める側になる。それが大人になるということだと思う。ところが私達は、モードを逆転させることを忘れ、子どもの頃の習性を続けてしまっているのではないか。

面白いことに、大人が子どもの頃の習い性を続けるよりも、大人のモードである「相手を認める」方が、自分を認めてもらいやすくなる。

そして、そういう本質的な自信を持った人から「認めて貰った人」は、その相手の事が好きになり、その傍から離れたくなくなる。

「人たらし」と言われる人は、そういう力を持っているんでしょうね。

以下に全文を転載しておきます。

「自分より優れていなければ学ぶところがない」という言葉を聞くことがある。私はもったいないな、と思う。学びの機会が激減するから。どんな人からも学びが得られる。それどころか、私はイヌネコからも学ぶところがあるなあと思うし、何なら微生物からも学ぶ。いろんなところから学べると楽しい。
自分より優れた人間以外からは学びたくない、という姿勢は、もしかしたら「自分は優秀な人間なのだ」という考えにしがみつきたいのかもしれない。私にもそういう気持ちがないでもない。自分は優れているのだと認めてほしい、という承認欲求。優越感という快感を味わいたい。そんな感覚。
「オレはそんじょそこらの人間と違う、優れた人間なのだ」とマウントを取ることは当然のことなのだ、もはや本能として刻みつけられたものなのだ、と思っていたが、YouMeさんと出逢ってから考え方がガラリと変わった。YouMeさんの親族がそうした感覚から解脱した人たちだったから。

義父の実家に夫婦で訪問したとき、ご親族に歓待してもらえた。とても静かに。私は大阪人だから、沈黙が本来苦手。沈黙があったらしゃべってなきゃいけない、という気持ちがあった。しかしYouMeさんの田舎のその家では沈黙が苦にならなかった。私のことを「よく来たね」という空気で包んでくれたから。
10分に一回くらい、「お茶飲む?」と声をかけてもらう。それ以外はほとんどしゃべらない。なのに不思議と居心地がよかった。私はそれまで、男性が口を開けば自慢話が陰に陽に出てきてマウント合戦になりがちなのを痛感していたが、「よう来なされた」という空気はその必要を感じさせなかった。

この静かな衝撃は、私の考えを劇的に変えた。自分の優秀さを陰に陽にアピールし、それを相手に認めさせようという欲求は、なんだか恥ずかしくないか?何を必死になっていたのだろう?マウントを取ろうとするその真の動機はどこにあるのだろう?マウント取り、優越感追求は本能ではないのかも?
「あなたがいてよかった、あなたが来てくれてよかった」という姿勢が相手にある場合、見栄を張る必要がないということに気がついた。マウントをとる必要もなくなることに気がついた。

そうか、マウントを取ろうとするのは、本当は「認められたい」という承認欲求があったからなのか。
私達は「優秀でなければ、人様のお役に立つ人材であると認めてもらわなければ無意味」という「呪い」にかけられている。もし優秀さ、役に立つ人材だと認めてもらえなければ捨てられる、役立たずとされてしまう、という恐怖を植えつけられているのかもしれない。

私が結婚した頃、「公園デビュー」という言葉があった。赤ちゃんを連れて初めて公園に遊びに行ったとき、うまくママさんの輪の中に入れなければ、その後も赤ちゃんと二人ボッチの孤独に苦しまねばならぬ、という恐怖を言い表した言葉だった。私はYouMeさんがうまく公園デビューできるか不安だった。
ところがYouMeさんは初めて訪れる公園でスンナリお母さんたちと馴染む。それどころか、赤ちゃんの面倒を他の子が面倒見てくれる。不思議なことに、大阪の初めて訪れる公園でも同じことが起きた。これは何かコツがあるに違いない、と思い、YouMeさんの言動を観察した。すると。

公園に着いた途端、赤ちゃんに話しかけるように「うわあ、あのお兄ちゃん、足速いねえ!ドビューン!」「すごーい、あのお姉ちゃん、雲梯上手だねえ、ピョンピョン!」
自分のパフォーマンスに驚く大人がいると気がついた子どもは、「ぼく、こんなこともできるよ!」「私はねえ!」とさらにアピール。
YouMeさんは赤ちゃんに語りかけるように「すごいねえ!」と驚いてるうち、子どもたちが「その赤ちゃん、おばちゃんの子?」と聞いてきて、「そうなの、一緒に遊んでくれる?」というと、「いいよ!」と快諾してくれて、自分のおもちゃを貸してくれたり。
よその子の面倒をうちの子が見るなんて珍しい、と思った母親が近づいてきて、YouMeさんに話しかけ。YouMeさんは「うちの赤ちゃんと遊んでくれて。優しいお子さんですねえ!」と驚いて。するとすぐにお母さんたちと打ち解けて、近所の有益な情報をゲットしたり。魔法のようだった。

そうか、「自分は優れている」なんてアピールする必要ないんだ、それを認めさせる必要もないんだ、相手のパフォーマンスに驚き、優しさに驚き、その好意に驚いていれば人は心を開いてくれ、こちらを受け入れてくれるのか!
だとしたら、マウントなんて邪魔でしかないじゃないか!

確かに私達は子どもの頃、優れたパフォーマンスを見せることで自分を認めてもらおうとする。幼児は「ねえ、見て見て」と口癖のように言う。昨日できなかったことが今日できるようになって、それに親に、大人に驚いてほしくて。
学校に上がれば、多くの親が成績を重視し、成績が上がらなければ認めない、という追い込み漁みたいな態度に出るようになる。すると子どもは、自分が優れた人間にならなければ生きている価値がないのかも、と思い込まされるようになるのかも。それが社会人になっても続くのかも。

「優秀さを示さなければ、それを他者に認めさせなければ、生きていけない」という恐怖心を植えつけられた「呪い」。それに私達は苦しめられているのではないか。大人になってもなお。

けれど、実は大人になると、モードを逆転させる必要がある。認めてもらう側から、認める側へ。
子どもや部下のパフォーマンスを認め、努力を認め、その苦労をいたわり。自分を認めさせるのではなく、自分が相手の存在を認める側になる。それが大人になるということだと思う。ところが私達は、モードを逆転させることを忘れ、子どもの頃の習性を続けてしまっているのではないか。

面白いことに、大人が子どもの頃の習い性を続けるよりも、大人のモードである「相手を認める」方が、自分を認めてもらいやすくなる。このことに私は、なかなか気づくことができなかったが、YouMeさんと結婚したことでようやく言語化できた。

私は子どもの頃、横山光輝「三国志」を読んでいて不思議だった。主人公の劉備は、関羽や張飛のような武力もない。孔明のような智謀もない。なのになんで彼らのリーダーでいられるのか、不思議でならなかった。それまで見てきたヒーローは、必ず卓抜したパフォーマンスを発揮していたのに。
劉備は一つ、卓抜した能力を持っていた。人の力を認め力。承認欲求を満たす力。

趙雲が劉備の奥方と子どもを見失った。必死に探索し見つけたが、奥方は傷を負い、足手まといになると言って自害。子どもを抱いて趙雲は百万もの大軍の中を必死に駆け抜けた。
劉備のもとに子どもを届けた。ここで劉備は、奥方と子どもを見失った趙雲を責めることもできた。奥方の無事を守れなかったことも責めることもできた。我が子の無事を喜ぶこともできた。しかし劉備のしたことは。
「危険な目にあわせて済まなかった」と趙雲に謝ることだった。自分の妻子を守るために、超運を失うところだった、もしお前を失ったら私は悔いても悔いきれない、と。
趙雲は、真っ先に自分の身を案じてくれた劉備のその姿勢に感激し、その後も獅子奮迅の活躍を続けることになる。

劉備が死の床に伏したとき、孔明を呼び寄せた。このとき、劉備は「我が子の劉禅をよろしく頼む」と頼み込むこともできた。何なら、蜀の実力者である孔明を危険人物として排除することもできた。しかし劉備が孔明にかけた言葉は。
「もし劉禅が人の上に立つ値打ちのある人間なら支えてほしい。しかしそうでないなら、君が君主になって治めてくれ」。孔明は蜀で並ぶもののない人間。あっさり蜀を乗っ取ることも可能だった。しかし、国も、息子の運命もすべて孔明に預けるその絶対的な信頼を、孔明は裏切る気にならなかった。

関羽、張飛、趙雲、孔明らは、中国史上でも卓抜した能力の持ち主だった。それでも劉備から離れようとしなかったのは、劉備ほど自分を認めてくれる人がいなかったからだろう。劉備のもとにいれば、自分は生まれてきてよかったんだ、生きていていいんだ、と、心から安心することができたのではないか。

人間は、自分の能力やパフォーマンスを認めてもらおうとするより、相手の能力やパフォーマンスを認める方が良好な関係を築けるのではないか。そういえば、幼い子は「○○ちゃんはすごいんだよ!足がすごく速いの!」と、他の子のすごいところをよく認めている。だからあんなにすぐ仲良くなれるのか。

劉備は相手の能力を認め、パフォーマンスに驚く。そして自分の才能のなさに謙虚でいる。では関羽や張飛、孔明らからバカにされるかというと、そうではない。自分の存在を認め、パフォーマンスに驚いてくれる劉備をむしろたてまつり、バカにする人間に真剣に怒る。
自分を認めてくれる人をバカにすることを許せなくなるのだろう。そのくらい、自分の存在を肯定してくれる人と出会うのは難しい。生きていてよかった、生まれてきてよかったんだ、と、自分を肯定できるようにしてくれた存在は、なんとしても守りたくなるものらしい。

ならば、どんな人からも学び、その人の優れたところに驚くようにしていた方が、人生楽しいのではないか。その方が人に恵まれるのではないか。その人のために尽くせば、相手も尽くしてくれる。そうした相互の互恵関係を作ることができるのではないか。その出発点が「相手を認める」ではないか。

「自分の優秀さを相手に認めさせる、自分より優れた人間からしか学びたくない」という姿勢は、実は、優秀でなければ自分は誰からも存在価値を認めてもらえないかもしれないという不安、恐怖に根ざしているのではないか。だから滅多なことで人を認められなくなっているのではないか。

私はむしろ、その不安が、恐怖があるからこそ、どんな人からも学ぶべきものがあり、どんな人にも驚くべきものがあると考え、人を認めるところからスタートした方がよいように思う。すると、ガラリと世界が変わる。自分の優秀さを示さなれば落伍者になる、という不安が消える。
その代わりに、「こんなにも自分に良くしてくれる人たちのために力を尽くしたい」という気持ちになる。能力を高める理由が、不安や恐怖からではなく、あの人に恩を返したい、喜ばせたいという楽しい欲求に変わる。これが相互に起きるので、互いに能力を高め合う。

劉邦や劉備は、そうした人間だったのだろう。部下を認め、パフォーマンスに驚くものだから、互いに能力を高め合い、必死にパフォーマンスを示す。それは仲間のため。そうしたいから。
「人に認めてもらう」から「人を認める」側へ。それが大人になるということかもしれない。

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