【骨抜きになってしまった日本人①】

【骨抜きになってしまった日本人①】

今の社会を見ていると、昔と比べて現代の日本人は本当に心が弱くなってしまって、多くの人がメンタルの悩みや問題を抱えている様に感じています。

「心の肥大化」は、現代日本の一番大きな問題なんじゃないかなっていう気がしますね。自分の心・感情を自分でコントロール出来なくなってしまった。

本来なら、それを教える立場の親や学校の教師、公的な仕事に就く人といった見本となるべき立場にいる人達が心を真っ直ぐに保てない。犯罪を起こす警察官とかいっぱいいてますもんね。他人の目を気にし過ぎてしまって、自らが心の安定を保てず、そのしわ寄せが子供に向かっている様に思います。

現代の日本社会の問題について、とても考えさせられるところがある内容なので、齋藤孝さんの著書「日本人の心はなぜ強かったのか ~精神バランス論~」より抜粋して少しずつ紹介させて頂きます。

【日本人の心はなぜ強かったのか】

 精神バランス論 なぜかつての日本人の強かったのか?親の世代、祖父母の世代と世代の記憶をさかのぼった時、「日本人の心が強くなったか?弱くなったか?変わらないか?」と考えると「弱くなった」と思う人が多いのではないだろうか。

中学、高校、大学の教員の実感としても、心が年々幼く弱くなってきているという声を聞く。学力低下よりも心の強度の低下がより問題だというのが、私達教員の共通認識になってきている。社会人でも同様の声を聞く。

では、かつての日本人が今よりも心が強かったとするなら、その理由、背景は何か。

理由は様々考えられるが、私の答えは「精神のバランスが良かったからだ」という事だ。「精神のバランス」には、二つの意味がある。

一つは、色々な精神がバランスよく内面に生い茂り、森の様に安定した生態系を保っていた。仏教、儒教、神道などが生活の中に溶け込んでいて、精神のバランスのよい土壌を作っていた。幼少期にイソップやアンデルセンや昔話に馴染み、世界文学全集を読んで精神をバランスよく養っていた世代があった。向学心や向上心を当たり前の様に精神の柱とし、目標に向かって力を合わせる協調的な精神をあたかも生来の気質の様に有していた時代があった。

司馬遼太郎が描いた幕末から明治の日本人は、「精神」を有していた。しかも、単一の精神に染まるのではなく、複数の精神を自分の中に共存させていた。現在の私達は、「あなたの中にある精神といえるものをいくつか挙げて下さい」と言われた時、答えられるだろうか。

私達には、心は確かにある。しかし、「精神」といわれた時、ちょっとはっきりしなくなる。「精神」の伝統が切れてしまっているからだ。様々な精神をバランスよく継承する事で、日本人は心を強く保ってきたのだ。

「精神のバランス」のもう一つの意味は、「心と精神と身体」の三つで私は人間を捉えているが、その中での「精神の担う領域」が小さくなり過ぎて、バランスが崩れているという事だ。

精神を継承し、整え、鍛える。

この作業に日本人は多くエネルギーをかけてきた。

しかし、現在は精神を強くする事より、心の問題にかかずらい過ぎている。

「精神と身体(習慣)の領域」を回復させる事で、内面のバランスが整うと考えている。

「甲子園」の高校野球から、私達は「精神のカタチ」を感じる。甲子園に出場しなかった者達も、「甲子園という精神」を共有している。「全力を尽くして、キビキビと、力を合わせて戦い抜く」精神の在り方は、一塁への全力疾走を見るだけでも分かる。

だからこそ、大会中に、試合中にさえ、成長する。精神が成長すれば、技も整う。甲子園という場が精神を育てている。そして、大会の継続が、精神の継承になっている。二十年前、五十年前の球児達と、2010年代の球児達の精神の間に大きな違いはおそらくない。

甲子園という精神が、多くの勢い溢れる教育者達によって絶え間なく継承されてきたのだ。

甲子園を目指して練習に打ち込んだ球児達は、一つの「精神」が自分の中に根付いた事を感じる。大人になっても、その精神が心を支えてくれているのを折に触れて感じるだろう。

精神は、日本古来のものである必要は必ずしもない。野球にせよ輸入品である。仏教、儒教、漢文なども輸入品だ。ゲーテやドストエフスキーやトルストイといった偉大なる精神が日本の青年達の精神を形成してきた。

国粋主義ではバランスが狂う。私が言いたいのは、あくまでバランスだ。森の様に多様で豊かな「精神の森」を作る事だ。

読書は、精神の森を作る王道だ。なぜなら精神の多くは言葉を通じて継承されてきたからだ。「精神を学ぶ読書」をするかしないか、これだけで心の強さは変わってくる。

続く

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以上抜粋

昔を美化するわけではないですけど、色んな意味で昔の人はバランスが良かったのは事実だろうと思います。その一番大きな理由はここでも書かれている様に、昔は嫌でも「身体を使わなければ生きていけなかった」。

齋藤さんの言われる「心の肥大化」、つまり人間脳の肥大化が起こりえなかったからなんでしょうね。三層構造になっている脳のうち、現代は幼い頃から人間脳=大脳新皮質ばかりを刺激するかあら、どうしても「頭でっかち」になってしまう。

頭の中で全てを考え、完結しようとしてしまう。でも、現実、つまり他人や物事は自分のイメージ通りには動かない。そこで、現実の方を重視する事が出来ればいいけれど、頭でっかちになっているとそれが出来ない。どうしても、自分の頭の中にあるものを優先して考え、「動かない他人や上手くいかない現実の方を否定」してしまう。

自然相手に生きていた、昔の人はそんな事は不可能だったから、いい意味で諦めが良かっただろうし、そうでなければ生きていけなかった。

そういった「現実を受け入れる強さ」が、昔の人の強さであったのだろうし、その受容力が何層にも心の中に重なっていたから、たくましく生きて行けたのだろうなと思います。

現代人は、昔の人よりも確かに学があり、知識は豊かであるかもしれないけれど、現実を受け入れる力、現実にある壁を乗り越える力は欠けていますよね。

人生に必要な「泥臭さ」を嫌い、取り去ってきてしまった弊害なんだろうなと思います。

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