【骨抜きになってしまった日本人②】

齋藤孝さんの著書「日本人の心はなぜ強かったのか ~精神バランス論~」の続きです。

心と精神は違うもの。これを認識しておく事はとても大切なんじゃないかなと思います。以下、抜粋して紹介します。

「なぜ今精神について語るのか」

「精神」とは何か。

一般には、「スポーツマン精神」とか「愛社精神」といった表現がある。あるいは国民性を表すもの、「古代ローマ人の精神」とか、「ドイツ人のゲルマン魂」「アメリカ人のフロンティア・スピリッツ」といったものもある。日本人の「大和魂」もそうである。

ただし、いずれもそこに実態があるわけではない。「考え方の問題」「気持ち次第」と言われればそれまでだ。

しかし私は、ここで一つの仮説を提起したい。

よく「精神」は「メンタル」と訳される。そして「メンタル」と言えば、いわゆる「心の問題」を連想しやすい。

だが、「心」と「精神」とは、基本的には全く別物である。

私が想定する「精神」は、個人のものですらない。

自分に刺激を与え、鼓舞し続けてくれる、ある種の外部圧力だ。

「精神」は、共同体や集団によって共有されるものだ。民族の様な大きなものから、学校やクラス、グループ単位の「精神」もある。はじめは「自分の外にあった精神」が、やがて「個人の内側に内在化」してくる。

「心」と「精神」に「身体(習慣)」も加えた三点によって、私達の存在は成り立っている。ちょうど三脚の様に、それぞれがバランスよく伸びる事によって、人間は真っ直ぐに伸びる事が出来る。

昨今は「心の問題」を抱える人が増えている。

これは先の三点になぞらえて言えば、「心」の部分だけが肥大化した状態だ。見方を変えれば、「精神」と「身体」の部分が縮小しているという事でもある。バランスを失っているわけだ。

「心の問題」を抱える人が増えているという事は、それだけ日本人の「精神」と「身体」が弱っている事を意味する。ならばその部分を鍛え直す事で、相対的に「心の問題」を小さくする事が出来るのではないか。

「心」は「精神」でコントロール出来る

元々、日本人は強い精神を持っていた。精神は一つではなく、いくつかの精神の柱を身に内に培っていた。

しかもそれは、身体の動きと強く結びついていた。全やお茶の作法しかり、武道の礼法しかり、あるいは漢文の暗唱しかりである。受け継がれてきた伝統を重んじ、身体の動きを「型」にはめる事で、その精神を身に付けたのである。

その典型が武士道の世界だ。侍と呼ばれる人達は、訓練を積んで身体を鍛えると共に、それが精神の涵養にもなっていたのである。

あるいは、特に身体の「型」は伴わなくとも、文化や伝統を学ぶ事も精神を鍛える一助になった。

例えば「もののあはれ」という感覚は、個人の心理というより、古来の日本人が文化的共同体として持っていた美学だ。現在、私達が桜を見て生きる事の美しさと儚さを感じるとすれば、それはかつて日本人がそう捉えてきた文化を知っているからだ。

何も知らない外国人が桜を見ても、「鮮やかで美しい花」としか映らないのではないだろうか。

いずれにせよ、「精神」「身体」の領域が大きくなれば、「心」の領域は狭くなる。これは、心が狭くなるという事ではなく、心の負担領域を減らす事が出来るという事だ。

精神や習慣によって心の負担を減らす事が、ある種の自我のコントロール法にもなっていたわけだ。

こういう言い方をすると、一部から反発の声が上がるかもしれない。「今の時代にそぐわない」「個人の自由を奪うべきではない」「人間にとって最も大事な“個性”が死んでしまうのでは」・・・。

だが、実際には私達は ある程度縛られた方が楽になる面もある。余計な事を考える必要がないので、その分だけストレスが減るのである。物事に対し、揺るがずに達観出来る、とも言える。

これは小林秀雄が説いた「無常観」に近いかもしれない。小林は、「無常といふ事」という文章の中で、かつての日本人が無常観という精神の在り方を現在の日本人よりも、ずっと深く身に付けていた、という主旨の事を述べている。

勿論、「精神」の部分だけが余りにも肥大化すると、今度は絶対服従や思考停止の状態に陥り、自分の痛みも人の悲しみも分からない人間になってしまいかねない。その典型が、例えばアルカイダの自爆テロだろう。重要なのはバランスだ。

そしてもう一つ、「心」「精神」「身体」はそれぞれ別個のものだが、お互いに壁で閉ざされているわけではない。むしろ情報を活発に行き来させる事によって、その個人の性格や表現を作り上げているのである。

例えば俳句を作る場合、アニミズム的に対象の細部に紙が宿っていると想定する事はよくある。

蛙一匹、草木一本一本にも心があると考えるのは、アニミズムという精神の領域だ。

その形、大きさ、置かれた状況に共感を寄せるのは身体の領域。

その心理を自分に置き換えて表現するのは、心の領域である。

この三点が揃って初めて、一つの句が出来るわけだ。

精神の復興に向けて 

ところが日本の場合、終戦を境にして、かつての「精神」「身体」の継承が途絶えた。良く指摘される通り、「日本時なるもの」の多くは捨て去られ、経済的な価値観だけが追及された。その結果、共同体で共有されてきた諸々の「精神」はその存在が失われ、代わって個人的な「心」が肥大化していたのである。

この傾向は都市化によってさらに進みやすい。都市で育った子供の場合、山や海に近い環境で育つ事に比べ、「身体」の感覚が希薄になるからだ。

そして今日、日本は頼みの綱の経済も芳しくない。東日本大震災もそれに追い打ちをかけ、戦後最大の危機に直面している。

だが気付いてみると、そこに頼るべき「精神」がない。一方で肥大化した心を抱え、ストレスを溜めていくばかり。日本人そのものが崩壊しつつある様にも見える。

これこそ、危機の核心かもしれない。

ならばどうするか。

残された道は、「精神」と「身体」」の復活だ。

日本古来の文化・伝統を学び直してみる。

地域や会社など、自分が所属する共同体を見つめ直してみる。

あるいは生活習慣の中に、あえて身体感覚を研ぎ澄ます様な動作・行動を加えてみる。

その他にも、色々考えられるだろう。

私は今まで、日本人論や身体論、コミュニケーション論など、人間と人間関係を様々な角度から研究してきた。特に過去に遡り、かつての日本人が持っていた豊かな精神性や身体性に触れる機会が多かった。

だから未曽有の危機の今こそ、日本人の精神の在り方を改めて世に問うべきと考えたのである。

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