ミスは楽観の中に生まれ、萎縮は悲観の中に生まれる
「ミスは楽観の中に生まれ、萎縮は悲観の中に生まれる」
これ、ほんまそうですね。試合で何度も痛い目に遭いました・・・。
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個人競技でコーチをつけずにやっていると、自らの楽観と悲観がそのまま意思決定に出るので、意思決定のミスで苦しめられました。
ミスは楽観の中に生まれ、萎縮は悲観の中に生まれます。
自分で自分を観察しながら夢中になるのは大変でだからこそスポーツの世界にはコーチが存在し、選手は競技に集中します。
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そうやって少しずつ、学んでいくのが人間というか、凡人なんでしょうけど。
僕は師も先輩も居てくれる中ですらそうやったから、一人でやってたら、それは大変ですよね。
人間にはメンターとかグルといった存在が、せめてある一時期だけでも絶対に必要やと思う。エゴが削り落とせないまんま年を喰うと、人間は本当にヤバい存在になってしまう。
以下、為末さんの記事を全文転載しておきます。
悲観か楽観か
よくあの人は悲観的であるとか、あの人は楽観的であるとか言いますが、実のところどちらがより良いのでしょうか。悲観的な人は現実を直視できるかもしれませんが、話をしていて暗くなります。楽観的な人は楽しくていいですが、暗い現実を直視せず逃避している側面もあります。
私は悲観的や楽観的の前に、どの程度事実に基づくかということがまず重要だと考えています。確かに人間にとっては世界は主観しかありませんから、全ては見方次第であるというのは正しいのかもしれませんが、あまりにも見方次第に寄せると「心頭滅却すれば火もまた涼し」のように精神論に行きつきがちです。楽観が行きつけば目を瞑って玉砕になり、悲観が行きつけば何もかもが虚しくなり厭世的になります。
事実の直視にはデータが欠かせません。チャンピオンデータと言われるように、データも何を集めるかによって随分結論が違います。できるだけ事実に近づこうとする意志が必要だと思います。また見方を多様にすることも欠かせません。議論の際に多様性が必要だということは少数派に優しいからという文脈で理解されがちですが、あらゆる主観を集めることでなるべく事実に近づけようというのが一つの役割だと考えています。事実(できるだけの)に近づこうとせず、楽観や悲観だけで判断するのはだいたい良い結論を招きません。特に日本は集団で意思決定する時、楽観や悲観の影響を受けやすいところがあります。
楽観を重視する人は事実を直視する話を聞いて、悲観的だと感じることがあります。心配してもしょうがない。明るくいけばなんとかなると考える人にとっては、事実は時に都合が良くないのでどうしても悲観的に見えてしまうのだと思います。
事実を直視する時、人間は無意識に楽観を抑えています。うつ病患者は健常な人よりも現実を見ているとされています。逆に言えば健常であるということは楽観に少し振れているということです。ですから現実を議論することが多い人はどうしても少し楽観を抑える癖がついていると感じます。時々その楽観を押させる癖が強くなりすぎて、賢さと悲観が結びついてしまいがちです。学生時代の賢い友人が妙に世間に冷めて厭世的になりがちなのは、賢い人がそうしているように見えることをどこかで学習したのだと思います。楽観的な方が友人ができるので修正することもありますが。
私はどの会議でも「想定される上で最も最悪な出来事は何か。それはどの程度の確率で起きそうか。自助努力によって避けることが可能か」と考えてしまいます。元々はあんまり何も考えないタイプなのだと思いますが、経験からそうなってしまいました。こうした性質は起業に向かないのだなと感じ、今はアントレプレナーの応援者になることにしています。
アントレプレナーと話をする時、楽観と悲観を見ています。個人競技でコーチをつけずにやっていると、自らの楽観と悲観がそのまま意思決定に出るので、意思決定のミスで苦しめられました。ミスは楽観の中に生まれ、萎縮は悲観の中に生まれます。自分で自分を観察しながら夢中になるのは大変でだからこそスポーツの世界にはコーチが存在し、選手は競技に集中します。
気分を変える際に大事になるのは、笑いです。一度笑うと人間は距離ができるという癖があります。自分を笑えている間は精神的に追い込まれません。適度に笑って楽しい気分になると気分を切り替えることができ、気分が変わると不思議と同じデータからも違う結論を導き出せたりします。
私の座右の銘は強いていうなら「生きながらに死ぬ(メメントモリ)」ですが、それは世間に生きながら世間から離れて楽観と悲観に漂う様子を観察するために必要な心構えだと感じているからです。良い判断をする上で、一人ぐらいはそういう役回りが必要でそれが自分なのかなと勝手に思っています。
「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇だ」
チャールズ・チャップリン