「ブッダの教え」より①
「ブッダの教え」という小さな冊子を頂きました。
薄い冊子ですが、大切な事が分かりやすく書いてあってなかなか良いです。
自分の所に来たのは「紹介しろ」っていう意味かな?と感じるので少しずつ、紹介していきます。
【人生の問い ー若き太子の苦悩ー】
宮廷の栄華も、健やかなこの肉体も、人から喜ばれるこの若さも、結局この私にとって何であるのか?
人は病む。いつかは老いる。
死を免れる事は出来ない。若さも、健康も、生きている事も、どんな意味があるというのか?
人間が生きている事は、結局何かを求めている事に他ならない。
しかし、この求める事については、誤ったものを求める事と、正しい事を求める事の二つがある。
誤ったものを求める事というのは、自分が老いと病と死とを免れる事を得ない者でありながら、老いず病まず死なない事を求めている事である。
正しいもの分かる求める事というのは、この誤りを悟って老いと病と死とを超えた、人間の苦悩の全てを離れた境地を求める事である。
今の私は、この誤ったものを求めている者に過ぎない。
【仏は永遠(とわ)に】
月が隠れると、人々は月が沈んだと言い、月が現れると月が出たと言う。けれども月は常に住して出没する事がない。
仏もその様に、常に住して生滅しないのであるが、ただ人々を教えるために生滅を示す。
人々は月が満ちるとか欠けるとか言うけれども、月は常に満ちており、増す事も減る事もしない。
仏もまたその様に、常に住して生滅しないのであるが、ただ人々の見るところに従って生滅があるだけである。
月はまた全ての上に現れる。町にも、村にも、山にも、川にも、池の中にも、かめの中にも、葉末(はずえ)の露にも現れる。
人が行くこと百里千里であっても、月は常にその人に従う。月はそのものに変わりはないが、月を見る人によって月は異なる。
仏もまたその様に、世の人々に従って、限りない姿を示すが、仏は永遠に存在して変わる事がない。
【縁と生滅】
人々の苦しみには原因があり、人々の悟りには道がある様に、全てのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。
雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、葉の散るのも、全て縁によって生じ、縁によって滅びるのである。
この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、また、この心も経験と知識によって育ったものである。
だから、この身も、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。
網の目が、互いに繋がり合って網を作っている様に、全てのものは、繋がり合って出来ている。
一つの網の目が、それだけで網の目であると考えるならば、大きな誤りである。
網の目は、ほかの網の目と関わり合って、一つの網の目と言われる。網の目は、それぞれ、ほかの網が成り立つために、役立っている。
花は咲く縁が集まって咲き、葉は散る縁が集まって散る。
ひとり咲き、ひとり散るのではない。
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この世の姿は、昔から、「網の目」や「織物」によくたとえられますね。
全ての物の関係、人間関係もそうですが、それは因と縁が重なり、折り合わさって出来ていく。
自分だけで成り立つ存在も行為もない。
それが真に分かれば、本当の意味での孤独もなく、迷いや悩みも無くなるんでしょうね。繋がりを理解出来ず、自分だけで存在しているかの様な勘違い、思い上がりが人を苦しめ、孤独にさせているだけなんですよね。
【偏った見方】
この世の全てのものは、みな縁によって現れたものであるから、元々違いはない。違いを見るのは、人々の偏見である。
大空に東西の区別がないのに、人々は東西の区別をつけ、東だ西だと執着する。
数は元々、一か無限の数まで、それぞれ完全な数であって、量には多少の区別はないのであるけれども、人々は欲の心からはからって、多少の区別をつける。
元々 生もなければ死もないのに、生死の区別を見、また、人間の行為それ自体には善もなければ悪もないのに、善悪の対立を見るのが、人々の偏見である。
仏はこの偏見を離れて、世の中は空に浮かぶ雲の様な、また幻の様なもので、捨てるも取るもみな虚しい事であると見、心のはからいを離れている。
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ほんまそうですね~。
人間が自分の勝手な価値観、自分の一方的な物の見方で、善悪、東西、右左の判断を下しているだけなんですよね。
思想の右寄り、左寄りなんて、判断する人の立ち位置次第でコロコロ変わりますし。
どこからが右で、どこから極左なのか、それは見る人次第・・・。
「優しさ」を「甘やかしている。それは本人のためにならない」と見るか、「純粋に優しい行為」と見るか?
「厳しさ」を「嫌な人」と見るか、「本当に優しいから言ってくれている」と見るか?
これも受け取り手次第ですもんね。