「ブッダの教え」より②

【中道の見方】

一本の材木が、大きな河を流れているとする。

その材木が、左右の岸に近づかず、中流にも沈ます、陸(おか)にも上(のぼ)らず、人にも取られず、渦にも巻き込まれず、内から腐る事も無ければ、その材木はついに海に流れ入るであろう。

この材木の例えの様に、内にも外にもとらわれず、有にも無にもとらわれず、正にも邪にもとらわれず、迷いを離れ、悟りにこだわらず、中流に身を任せるのが、道を修める者の中道に見方、中道の生活である。

道を修める生活にとって大事な事は、両極端にとらわれず、常に中道を歩む事である。

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「中道・中庸」という言葉は、日本で生きていれば、もう耳にタコが出来る程聞く言葉ですが、それが出来ていれば悟ってこの世には生まれていない事を考えると、体得している人はまあほぼ居ないと言っていいのでしょうね。

それ位、難しい。

人は常に自分の立場、経験に偏った物の見方をし、判断をしているもの。

「妙な色の色眼鏡を付けて、常に世界を見ている愚か者が自分なのだ」と認識している位でちょうどいいんでしょうね~。

そして、偏らないためには、常に自分の知識や経験値を増やす事、反対側の物の見方を身に付けようと努力する事なのだと思う。

よく最初から、悟りきった様な事をして、「頑張る・努力」を否定する人がいるけれど、ブッダだって果てしない苦行をした上での「苦行の否定」であって、それを経験した事がない者が言う机上の空論ではないんですよね。

「経験したからこそ言える否定」と「本やネットで得ただけの知識」は、そこに籠る価値が全く違う。言葉にも重みがない。

右に左に、上に下に、死に物狂いで努力し、「経験を広げ切った結果としての、真ん中」に人は辿り着くのが本当の修行であり、そのためにこそ、この「苦の世界」にわざわざ不便な肉体を持って生まれて来ているのだと思う。

最初からラクをして、それを中道とかほざいていえるヤツは絶対に中道・中庸の世界には辿り着ける事はないはず。

ただし、「前世まででもうほとんど修行済み」っていう人間は別。

本当にまれやけど、そういう人は居ると思っています。「一個だけ単位落としてしもてん(笑)」って言う人は、今世は他の人からすると、ナメてんのか?という位、スムーズで快適な人生を過ごすのだと思う。

たま~に居ますよね、そんな人。

美人、男前で性格良くて、家柄もいい、頭もいい。そんな人。

でも悔しがってもしょうがない。

その人は、過去世で十分な苦労と経験、そして努力を済ませた人やから。

そういう人には妬んだりせずに、「ええな~、自分もいずれはこんな風な人間になりたいな~」と素直に憧れて努力していったらええんやろ~、と思っています。

【仏の教え】

悟りを求める者が学ばなければならない三つの事がある。

それは戒律と心の統一(定、じょう)と智慧の三学(さんがく)である。

戒とは何であるか。

人として、また道を修める者として守らなければならない戎を保ち、心身を統制し、五つの感覚器官の入口を守って、小さな罪にも怖れを見、善い行いをして励み務める事である。

心の統一とは何であるか。

欲を離れ不善を離れて、次第に心の安定に入る事である。

知恵とは何であるか。

四つの真理を知る事である。 それは、

これが苦しみである、

これが苦しみの原因である、

これが苦しみの消滅である、

これが苦しみの消滅に至る道である

と明らかに悟る事である。

この三学を学ぶ者が、仏の弟子といわれる。

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紀元前に明かされた、このたった数行で書ける内容を全く理解出来ずに、幻想であるこの現世で一生苦しみ続けるのが人類という愚かな生き物なんですよね・・・。

【空、くう】

ものが平等であって差別のない事を空という。

ものそれ自体の本質は、実体がなく、生ずる事も、滅する事もなく、それは言葉で言い表す事が出来ないから、空と言うのである。

全てのものは互いに関係して成り立ち、互いに寄り合って存在するものであり、一人で成り立つものではない。

ちょうど、光と影、長さと短さ、白と黒の様なもので、ものそれ自体の本質が、ただ一人であり得るものではないから無自性(むじしょう)と言う。

また、迷いの他に悟りがなく、悟りの他に迷いがない。これら二つは、互いに相違するものではないから、ものには二つの相反した姿あるのではない。

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僕は長く空手をやっているのですが、昔は手(てぃー)と呼ばれ、頭に琉球の地域の名がつき、那覇手とか首里手と呼ばれ、本土に入ってきた頃は唐の影響を受けたものという意味合いで唐手(からて・とうで)と呼ばれていました。唐揚げと同じですね(笑)

それが日本に定着していた空の思想から、「唐」の字を「空」に変えて、今の空手というメジャーな呼び名に変わっています。

こういった教えを読むと、「全ては有であり、同時に無である」とか「全てを含む」とか様々な意味を含む名を頂いた武道を修行させて頂いている事に改めて感謝の想いが湧いてきますね。

日本人は、何かとこの「空」とか「無」とかの言葉を好んで使いますが、その深い意味合いを頭ではよく分かっていなくても、何となく体で理解する部分がこの国で生まれ育つとあるんでしょうね。

武道や宗教でなくても、「無心」とか「無我の境地」とか、あらゆるジャンルで使ってますもんね。

【水には丸や四角の形はない】

煩悩のちりに包まれて、しかも染まる事も汚れる事もないない、本来清浄(しょうじょう)な心がある。

丸い器に水を入れると丸くなり、四角な器に入れると四角になる。しかし、本来、水に丸や四角の形があるのではない。ところが、全ての人々はこの事を忘れて、水の形にとらわれている。

善し悪しと見、好む好まぬと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、外のものを追って苦しんでいる。

縛られた見方を外の縁に返し、縛られる事のない自己の本性に立ち帰ると、身も心も、何ものにもさえぎられる事のない、自由な境地が得られるであろう。

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よく言われる事ですが、この簡単な事が出来ないものですよね、人間って。

どうしても形にとらわれる。人間が作った人工的な知識や知恵、文化・文明に縛られて、「物事を在りのままに見る」という事が出来なくなっている。それによって、自分自身を苦しめているのに・・・。

【仏の種】

清浄(しょうじょう)の本心とは、言葉を変えて言えば仏性である。仏性とは、すなわち仏の種である。

レンズを取って太陽に向かい、百草(もぐさ)を当てて火を求める時に、火はどこから来るのであろうか。

太陽とレンズとはあい隔たる事 遠く、合する事は出来ないけれども、太陽の火がレンズを縁とし、百草の上に現れた事は疑いを入れない。また、もしも太陽があっても、百草に燃える性質が無ければ、百草に火は起こらない。

今、仏を生む根本である仏性の百草に、仏の智慧のレンズを当てれば、仏の火は、仏性の開ける信の火として、人々という百草の上に燃え上がる。

仏はその智慧のレンズを取って世界に当てられるから、世をあげて信の火が燃え上がるのである。

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燃え上がる本性を持った人を見抜いて、その人に合った教えを説くのが指導や教育のコツなんですよね。

学校の勉強は全くやる気がなかった人が、サッカーでは頑張れたり、音楽では頑張れたり。

その人の「やる気の源」が「どんな形=表現手段」なら、燃え上がるのか?引き出せるのか?

そこを考えるのが教育の醍醐味であり、指導者の腕の見せ所なのだと思う。

この部分が抜け落ちてビジネス一辺倒の人は、指導や教育の世界に関わったらアカンと思うんですよね。

【五つの壁】

この世において、どんな人にも成し遂げられない事が五つある。

一つには、
老いゆく身でありながら、老いないということ。

二つには、
病む身でありながら、病まないということ。

三つには、
死すべき身でありながら、死なないということ。

四つには、
滅ぶべき身でありながら、滅びないということ。

五つには、
尽きるべきものでありながら、尽きないということである。

世の常の人々は、この避けがたい事に突き当たり、いたずらに苦しみ悩むでのであるが、仏の教えを受けた人は、避けがたい事を避けがたいと知るから、この様な愚かな悩みを抱く事はない。

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ブッダから言わせれば、現代人の言う「アンチエイジング」とかクソ過ぎる思想でしょうね~(笑)

ブッダはとにかく例えが上手いし、時代や相手を見て理解が出来る様に合わせはるでしょうから、
もし現代に生きてたら、「そら無理ゲーってもんでっせ!」って感じで伝えるんちゃいますかね~?

食や運動で健康的である事は可能やけど、細胞がそれなりに老いていくのは当たり前であり、それが自然なこと。

現代人は、食が化学物質でメチャクチャになっているから不健康になっているので、それを防ぎ本来のナチュラルな食、今風に言うと「オーガニック」という食事を心掛け、しっかり運動するという事で、今よりも若々しくなる事は可能。
でもそれ以上は無理な話。

「自然界で生きる動物らしく、自然な生き方をしなはれ」って言うんちゃいますかね~?

【智慧の言葉(法句教)】

怨(うら)みは恨みによって果たされず、忍を行じてのみ、よく怨みを解く事を得る。これ不変の真理なり。

我が愚かさを悲しむ人あり。この人すでに愚者にあらず。自らを知らずして、賢しとす称するは愚中の愚なり。

戦場において、数千の敵に勝つよりも、自己に勝つ者こそ、最上の戦士なり。

例え百歳の寿命を得るも、無常の教えに会う事なくば、この教えに会いし人の、一日の生にも及ばず。

人に生まるるは難く、いま生命あるは有難く、世に仏あるは難く、仏の教えを聞くは有難し。

諸々の悪を為さず、諸々の善を行い、己の心の灯を浄(きよ)くす。これ諸仏の教えなり。

子たりとも、父たりとも、縁者たりとも、死に迫られし我を、救うこと能(あた)わず。

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何かのハウツーを学ぶ前に、人はこの世の中の本質を学ぶべきなんですよね。
これが分からないから、一生苦しみ、一生を棒に振る。

【どこにもない芥子(けし)の身】

裕福な家の若い嫁であったキサーゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、冷たい骸を抱いて巷に出、子供の病を治す者はいないかと尋ね回った。

この狂った女をどうする事も出来ず、町の人々はただ哀れげに見るけであったが、釈尊の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎の釈尊のもとに行く様にすすめた。彼女は早速、子供を抱いて行った。

釈尊は静かにその様子を見て、「女よ、この子の病気を治すには、芥子の実がいる。町に出て四、五粒貰ってくるがよい。しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家から貰ってこなければならない」と言われた。

狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求める事が出来なかった。

ついに求める芥子の実を得る事が出来ず、仏のもとに戻った。

彼女は釈尊の静かな姿に接し、初めて釈尊の言葉の意味を悟り、夢から覚めた様に気が付き、我が子の冷たい骸を墓所におき、釈尊のもとに帰って来て弟子となった。

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これは本当に有名な話ですよね。

子供の頃にこれを聞いて、ブッダって凄いな~と思ったのをよく覚えています。

自分の身に照らして、体で味わっていないと真の理解とはならないんですよね。痛い目、辛い目に遭って人は初めて悟るもの。

【土台のない高楼(たかどの)】

金持ちではあるが、愚かな人がいた。他人の家の三階作りの高層が高くそびえて、美しいのを見て羨ましく思い、自分も金持ちなのだから、高層の家を造ろうと思った。

大工を呼んで建築を言いつけた。大工承知して、まず基礎を作り、二階を組、それから三階に進もうとした。主人はこれを見て、もどかしそうに叫んだ。

「私の求めるのは土台ではない、一階でもない、二階でもない、三階の高楼だけだ。早くそれを作れ」と。

愚かな者は、務め励む事を知らないで、ただ良い結果だけを求める。
しかし、土台のない三階があり得ない様に、務め励む事なくして、良い結果を得られるはずがない。

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この笑い話のような事をやっているのが、この世の95%以上の人間なのでしょう。
自分自身を含めて、人類とはこんな愚かな生き方をしているのだと思う。

少し先を見通す目と頭さえあれば、見通せる未来の結果が、欲で曇った心によって見えなくなる。

アスリートへの指導でも、見栄のいいトレーニングに惹かれ、地味なインナーマッスル系、バランス系のトレーニングをやりたがらない人が多いし、健康目的に人でも、食の見直しや地味な基礎トレーニングを嫌う人が多い。

どれだけ理論を伝えても、聞く気がない人って、地道なものより見栄えのいいものを選択したがるんですよね・・・。

結局、こういう心や頭の使い方をしている限り、仕事でも私生活でも上手くいく事はないのだと思う。

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