「身体感覚の欠落」

続きです。

明治大学教授齋藤孝さんの著書より、抜粋して紹介します。

「身体感覚の欠落が心を暴走させている」

こういう日本の職人気質をこよなくリスペクトしたのが、ゴッホである。最も個性的な表現者として知られるゴッホだが、職人としての浮世絵師に憧れていた。手紙には以下の様に記している。

〈日本の芸術家達がお互い同士で作品を交換した事に、僕は以前から感心していた。それはお互いに愛し助け合っていた印だ、彼らの間にはある種の融和があったに違いない。

なんでも日本人達は極く僅かの金しか稼がず、普通の職人の様な生活をしたそうだ。〉

(ゴッホの手紙・上)

自分の名前を残そうなどと露とも思わず、生活と一体化した様な仕事振り。しかも一人で全てをこなす訳ではなく、何人かで一枚を仕上げていく協力体制。こういう職人の姿が、いたく気に入ったらしい。

ゴッホはそこに、心の安定を見たのだろう。

自信の心が不安定だっただけに、彼らの様な日々を送りたいと思ったに違いない。だから後に、画家の共同体の様なものの設立を夢想したのである。

職人気質は、高度経済成長時代の技術者にも当てはまるところがある。「自分は技術屋だから」と語りたがる人は多かった。この「技術屋」とは、まさに職人気質に他ならない。

技術屋であれ職人であれ、仕事である以上は何度も壁にぶつかって悩んできたはずだ。だがそれは、いわゆる心の悩みではない。その仕事を通して社会と関わり、自分のやるべき事も明確なため、まさに技術的に乗り越えればいいだけの話だ。こういう日々も、幸せな仕事人生と言えるだろう。

ところが現代の仕事は、「身体の習慣を必要としない」ものが増えている。特にパソコンに向かう仕事の場合、身体はさほど使わないし、会社も行く必要すらないかもしれない。私生活にしても、洗濯板を使う必要はない。

私達は、身体を使う習慣を減らす事が楽に繋がると信じてきた。実際、その前提で便利さを追求してきた。

だが、結果として、「心の領域の肥大化を食い止める」というプラス部分まで減らしてしまった。「身体を使わなくなった分、心にかかずらう時間が増えた」という事だろう。

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