「身体操作」が精神をつくる
続きです。
身体を使う事、その操作の方法・技術を磨く事が「心=感情」ではない部分、「精神という領域」を作っていくというのは、本当だなと思います。
以下、明治大学教授齋藤孝さんの著書より抜粋して紹介します。
「職人仕事」が精神をつくっていた
かつて日本人は、精神の領域と身体の領域を上手く使っていた。禅の修行にしても、じっと座ったままで心の修行をする様に思われがちだが、作業する事も多い。掃除や食事といった事自体を習慣化し、そこに意識を当て続ける事も修行の一環なのである。
例えば、精神療法の一つである「森田療法」を創始した森田正馬(まさたけ)が提唱した作業療法は、神経症などの心の病をこういう作業を通して癒していく事を目的としている。
何もしないままじっとしていると、自然に心は肥大化する。
そこで朝起きて掃除をしたり、食事を作ったり食べたりする事で、意識をそちらに向ける事が出来る。これが精神衛生面でプラスに働くのである。
以前の日本にはいわゆる「職人気質」が普通に存在した。それにより心を肥大化させずに済んだ人も多かったのだ。
職人気質の特徴は、まず必要以上に考えない事にある。
モノ作りに対するこだわりや工夫はあるものの、考え過ぎずに手を動かし、手で覚えていく。ワザを丁寧に教えられる事はなく、親方の作業を見て盗むしかない。もし、手を抜いた仕事をしようものなら、親方から怒鳴りつけられる。
このプロセスで次第に精神が養われ、いい加減な仕事はしない一方、虚栄心などを持つ事もないのである。
例えば下駄職人が作る下駄は、高品質ながら芸術品ではない。ある水準以上である事を旨とし、それ以上は求めない。常に新しいものを作ろうとする芸術家とは違い、基本的に今までと同じ物をずっと作り続ける。
そこに誇りはあるが、それ以上の個人的な表現の野心はない。
つまり、職人の仕事振りそのものに心の領域を狭める作用があるわけだ。
何も考えず、ただ手作業を自動化し、今日も昨日と同じ様に、明日も今日と同じ様に働く。こういう日々が何十年続いた後、ひっそりと死んでいく。
一つの仕事に職人気質で徹する人生は、「心の安定」という意味では非常に幸せと言えるだろう。これは、「日本という社会の穏やかさ」にも通じるものがある。
しかも着目すべきは、生まれながらにして職人気質を持つ人はまずいない、という事だ。多くの人は、ある職人的な仕事をする事によって、徐々にその気質をワザ化させていくのである。
そこで涵養されるのは、職人的な手仕事という身体的な習慣と、必ず一定のクオリティの物をコンスタントに作り続けるという精神だ。つまり、習慣と精神ががっちり結び付いたところで、自分の人生が定まっていたのである。