【“豊か“であるがゆえの不幸②】

続きです。

明治大学教授齋藤孝さんの著書より抜粋して紹介して紹介します。

「強い日本人はどこへ行った」

だが、ほんの数十年前を振り返ってみて頂きたい。

高度経済成長の時代には、男は学校を卒業したら就職して働くもの、早朝に起き、満員電車も厭わず、40年に渡って一つの会社で勤め上げるものと相場が決まっていた。

あるいは学校にしても、サボるという発想がなかった。

「行く、行かない」の選択は思いもつかず、どんな気分でも行くものだと思っていた。これが習慣というものだ。

その習慣の力が大きかったため、気分とは関係なく、社会に合わせて自分も動いていた。実際、「30年間無遅刻無欠勤」などという人も少なからずいた。

あるいはかつて、千日回峰行を終えた修行僧の方が「熱を計った事はありません。熱を計って、あっても休めるわけではないですから」と述べていた事がある。体調が悪かろうが風邪をひこうが護摩供は行い、歩くものは歩くと決めてかかっているわけだ。

これも強靭な精神と習慣のなせる業といえるだろう。

この様に精神と習慣の大きい人は、日常的な気分や感情に左右されない。

つまり心の領域を減らしている事になる。

とはいえ、これは他者理解の能力が低くなる事を意味するわけではない。あくまで自分の感情にどう対処するかという問題だ。

他者の気持ちを慮るのは全く別次元の問題である。また「心」の領域の問題というよりも、むしろ理解力や知性といったものが必要になってくる。

今では企業においてもちょっとした理由での欠勤や遅刻早退が多くなっている。場合によっては理由も明かさないまま長期欠勤し、そのまま挨拶もせずに退職してしまう事もあるという。私は教育実習生の指導を長年行っているが、最近は遅刻したり休んだりしてしまう実習生がちらほらいる。実習は相手校の事情が最優先であるにも関わらず、実習生が自分の都合を優先させる思考をしてしまう傾向が強まっている。指導担当の教師と「反りが合わない」から心の調子が悪くなってしまったので、病院に行って診断書を貰う、というケースもあった。

「心の問題」にしてしまえばだれも干渉出来ない、という姿勢が見られる。

身体的な習慣の領域が小さく、身に付いていないため、心の状態次第で「何となく」休んでしまうわけだ。そういう人は、自己中心的になっているため、当然ながら他人の感情に対する理解も乏しい。

およそ文化・文明というものは、人間の自己中心性を補完するために生まれてきた面もある。皆で共同体を作り、互いに奉仕する形の社会にすれば、皆が相応の恩恵を得る事が出来る。その延長線上に今日の国家がある。

だが、もとより自己中心的な人間ばかりでは、その効力も及ばない。地域や国家が当たり前の様に存在するため、その恩恵も当たり前の様に感じてしまう。

そういう意味では、心の肥大化は、国を作っていかなければならないという危機感のないところに生まれた、ある種の“余裕病”とも言えるだろう。

確かに、今日の日本では貧困の問題も深刻だが、しかし世界的に見れば、あるいは歴史的に見れば、まだ極限的貧困とは言えない。

一方で右肩上がりの高度経済成長時と比べ、将来に希望を持ちにくい事は確かだ。私達は希望がないのに余裕があるという、微妙な状況に追い込まれているのである。

以上抜粋

「身体の”習慣”が心の弱さを救う」というのは、本当だと思います。現代の教育はこの部分を疎かにし過ぎなんですよね。脳の状態は体を使ったり、周囲の環境によって簡単に左右される。外部の環境を整えたり、自分で体を動かす事で脳内ホルモンや脳波の状態を簡単に変えられるのに、それを脳内の「思考によってのみ」変えようとするのは、至難の業だと思う。というか、ほぼ不可能だと思うんですよね。

先人の智恵を学んで、「身体から変える」「身体に叩き込む」という部分をもっと取り入れていくべきなんだと思います。

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