脳を操れるが故、人間の苦悩は生まれる⑤

続きです。


「七転び八起きの人生」
 
増田選手はそれから現役を引退した。もう走る事はやめたと言った。それから保母さんだか幼稚園の先生になりたいと言って法政大学二部へ進んだ。ところが、そのうち陸上部に入って再び走り始めた。そして、そのうちアメリカへマラソン留学してしまい、トレーニングの模様が放映されたりした。
 
彼女の行動は猫の目の様に変転し手、その行動に注目していた人達は振り回された。私もその一人であった。
 
しかし、彼女は私の予想通りに行動していた。あの大阪国際女子マラソンで劇的な倒れ方をする時から、彼女の性格と行動の仕方が私には手に取る様に見える様になっていた。
その後の彼女の同行は、私の記憶の中から姿を消す。
 
そしてある時、あるレースのコメンテーターとして突如姿を現した。同時にテレビの画面にも出現する様になった。現役時代と違って、とても女っぽく、可愛くなっていた。もともと弁舌は爽やかな方であったから、ああ彼女はこの方面の仕事が向いているなと直感した。
それから、新聞や雑誌にエッセイを書く様になり、その、ちょっとエスプリのきいた、センスの感じさせられる文章に接した時、ああ、この人は別の人生をみつけたなと思った。
今はもうNHKの「昼どき日本列島」で知らない人はいないだろう。
 
所で、私は本文の始めの方で、彼女が走行中に頭から突っ込む様に道路に倒れ込むのを見た時に、「もしかするとヒステリー性々格の所有者なんどえはないか、という判断が頭をよぎった」と書いた。これは彼女への中傷でもなければ、その名誉を毀損するものでもない。心理学的な意味での真面目な直感である。
 
その根拠というか裏付けというものを、1994年10月3日の「読売新聞」夕刊に掲載された彼女のエスプリの中に発見した。彼女自己分析は明確であり、それを判然と書くところはやはり物書きである。「タレントえっSAY」という欄の署名入りのエッセイの冒頭はこうである。
 
「大きな声では言えないけれど、私は感情の起伏が激しい。年に一度、いや、もっと頻繁にすさまじい落ち込みが大波の様に押し寄せてくる。何もしたくない。消えてしまいたい。フラっと、倒れて病院に担ぎ込まれたら楽になる・・・。ふとそんな事を真剣に考えているから重症だ」
彼女は週一回、知的障害者にジョギングを教えているそうだが、その施設の長である姥山寛代先生を非常に信頼しており、「姥山先生に接していると、心豊かに生活する事の尊さを教えられる」と書いている。
ある時、自分の落ち込みの原因を話したら、「自分の力を過信しているのよ」と言われたという。
「人から良く思われたい。高く評価されたい。そんな私の性格を思いっきり指摘された。そこまで言わなくても・・・と唇がピクピク動いたが、当たっているだけに、反論出来なかった」とも書いている。
 
私も多分、「そこまで言わなくても・・・」と言われる様な事を彼女について書いているのかもしれない。しかし、ここは重要な所であるから、目を反らす事なくしっかりと書いておきたい。
 
続く

自分の嫌な所、とても狭くて醜い所は本当に見たくないものですが、ここから目を反らすと人は成長出来ないだけでなく、人生であらゆる問題を引き起こす根本的な要因を放っておく事になってしまう。全ての問題の根っこにある、一番の原因。

ここにいつ気付けるか?あるいは一生逃げ続けるのか?

ここにうっすらと気付きかけた時が人生の岐路なんですよね。

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