愛とは強さ
すっごく感動したので、転載しておきます。
この娘さん、凄い。凄過ぎる。肚が決まっているというか、愛の深さがとんでもないというか。
普通、十代の子やったら、一緒に泣き崩れますよね。
時間のある方はぜひ読んで欲しいです。
●致知出版社の人間力メルマガ 2022.1.13
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知的障碍のある長男の誕生、夫の死、ご自身の大病など、度重なる試練を潜り抜けてきた岸田ひろ実さん。絶望の中にいた岸田さんを救い、立ち直らせたものは何だったのでしょうか。
人生の歩みを交えながら語っていただいた『致知』の記事を紹介します。
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私が倒れたのは、主人が亡くなって2年後でした。父親を亡くして子供たちも精神的に落ち着かない状態でしたので、私も1年間は家にいて子供たちのケアをしながら過ごしていました。1年後、たまたま近くにオープンした整骨院が受付業務を応募していて、そこで働くようになりました。
一応、完璧主義者というか、家事も子育ても手を抜かない主義でしたので、気がつけば平均の睡眠は4時間。夜は洗濯と掃除を終えて、明日のお弁当の準備をして床に就く。朝は5時半に起きて朝食をつくり、子供たちを送り出して仕事に行く。そういう生活を続けていたら、やっぱり倒れてしまったんです。心臓の血管が外から剥がれていく大動脈解離という死の病でした。
助かるには、心臓の血管を丸ごと人工血管に変える大手術が必要でした。手術をしても命が助かる確率は2割あるかないか。それを宣告されたのが高校2年の奈美なんですね。宣告を聞いた奈美は吐いて気を失って、そのまま病室に運ばれたそうです。
幸い手術は成功しました。ところが、胸から下に麻痺が残ってしまったんですね。「命は助かりましたが、自分の足で歩くことは一生できないので、諦めてください」。そう言われた時、最初に思ったのは、病室の外で待ってくれている娘にこの現実をどう説明しようか、ということでした。
娘はいつものように「大丈夫、大丈夫」と明るく言ってくれました。でも、大丈夫ではないことは私が一番分かっていました。好きなところにも行けないし、好きな服も着られない。すべてを失って、人ではなく物になってしまった。そんな気持ちでした。それ以上に年頃の奈美と障碍のある良太のこれからを思うと、深い闇に沈んでいくようでしたね。
病気は順調に回復しましたが、それよりも褥瘡、床ずれのほうが大変でした。麻痺した部分の血流が悪いので、1度酷くなるとなかなか治らない。気がつくとどんどん悪化していて、大手術を2回受けることになりました。
この時は3か月間ずっとベッドに仰向けのまま自分の意思では顔も動かせない状態でした。ご飯を食べるのも歯を磨くのも、ずっとベッドの上。それだけに、ようやく車椅子で外泊の許可が出た時は天に昇るようでしたね。
ある日、娘が車椅子を押して私を街に買い物に連れ出してくれたんです。目的の店はすぐ目の前なのに車椅子では遠回りしないと行けないというようなことがいかに多いかを、この時の外出で初めて実感しました。それともう1つは人の目線ですね。どこに行っても「うわぁ、かわいそう」といった目で見られてしまう……。
「車椅子で何とかなると言ったって、何ともならないじゃない」という感情がワッと込み上げて、一所懸命に頑張ってきたものが音を立てて崩れるようでした。それが本当に辛くてレストランに入った時、「もう無理」と思って初めて娘の前で泣きました。「こんな状態で生きていくなんて無理だし、母親として、してあげられることは何もない。お願いだから、私が死んでも許して」って。
娘は「泣いているだろうな、死なないでって言われるんやろうな」と思ってふと見たら普通にパスタを食べていました。そして「知ってる、知ってる。死にたいんやったらいいよ。一緒に死んであげてもいいよ」と言ったんです。
続けて「でも、逆を考えて。もし私が車椅子になったら、ママは私のことが嫌いになる? 面倒くさいと思う?」と聞きました。
「思わないよ」「それと一緒。旅行に行きたかったら行けばいいし、歩けないなら私が手伝ってあげる。2億パーセント大丈夫だから私の言うことを信じて、もう少しだけ頑張ってみようか」と言ってくれたんです。私の生き方や考え方が大きく変わったのはそれからです。
※本記事は月刊『致知』2015年12月号「人間という奇跡を生きる」から一部抜粋・編集したものです。
自分がもし十代で、この立場に置かれたらなら、どう言えるんやろ?と考えさせられました。
とても、この娘さんの様には言えないと思う。愛の深さが、この覚悟を決めさせたんでしょうね。
愛とはとんでもなく強いものなんやな、と思い知らされた気がします。