リスクを取って自分自身で決める
Facebookで陸上の為末さんのとても考えさせられる記事があったので、紹介させて頂きます。以下の部分、今人類が直面している課題ではないかと思います。
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自立心は小さい時から自分で考えさせリスクを取って決定することの繰り返しで身に付くというのが私の考えです。ここで大事なポイントは「リスクを取る」というところです。
リスクがあるということは一定の確率で当然何かを失います。不思議なもので、みんなで同じ行動をとりながらみんなで同じくらい失っている時に人は自分が何かを失っていると感じにくい性質があります。
せいぜい周辺の100人との比較で自分の立ち位置を測っていて、その100人みんなが沈んでいれば差を感じないからだと思います。日本のような同調圧力が強めの社会では、リスクを取る感覚とはみんなと違う行動を取る感覚がかなり近いと私は思っています。
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為末さんのFacebookより転載です。
現代の日本の課題を集約すると、日本人の「自立心の無さ」から来ているのではないでしょうか。歴史的経緯にその起源があるというご意見もありますが、幕末や戦後など急激に社会を変革した人々がいた時期があったことを考えると、条件さえ揃えば自立心は生まれ得るのだと私は考えています。ではどうすれば自立心は生まれるのか、またそもそも自立心とは何かを考えてみたいと思います。
自立心の定義を私は「自らの頭で考え自らの身を守り、自らの意志と力で人生を切り拓く力」だとしています。実はもう一つの定義もありますがそれは後ほど。まず自分で自分の身を守るということは自立心の前提で、特にみんなと同じ行動をしていても身が守れないという局面で大事になると思います。そうした局面では、大きな視点で見て何が起きているのかを理解し、自分の頭で考えて、勇気を持ってリスクを取り、決定し行動することが大事だと思います。しかし誰もがこんなことをいきなりできるわけではなく、できるようになるためには練習が必要だと思います。
自立心は小さい時から自分で考えさせリスクを取って決定することの繰り返しで身に付くというのが私の考えです。ここで大事なポイントは「リスクを取る」というところです。リスクがあるということは一定の確率で当然何かを失います。不思議なもので、みんなで同じ行動をとりながらみんなで同じくらい失っている時に人は自分が何かを失っていると感じにくい性質があります。せいぜい周辺の100人との比較で自分の立ち位置を測っていて、その100人みんなが沈んでいれば差を感じないからだと思います。日本のような同調圧力が強めの社会では、リスクを取る感覚とはみんなと違う行動を取る感覚がかなり近いと私は思っています。
グランドキャニオンは素晴らしい風景が広がっていますが、崖の淵の柵は驚くほど小さく低いです。自分の不注意で一歩踏み出せば本当に転落できてしまいます。安全と危険の境目が行政や権威がある場所に決められているわけではなく、自らで考え判断しないと、本当に死んでしまうことがよくわかります。
以前子供たちと遊んでいる時「この木登っていい?」と聞かれたことがありました。許可されている範囲、許された範囲で行動するということが染み付いているのだと思います。しかし、実際の社会は基本なんでもやっていい中にやってはいけないことが一部決められている形になっています。別に違う国に住んで商売をしても、会社を辞めてもスタートアップを始めてもいいわけです。こうすればいいということが法律で書かれているわけではなく、こうしてはいけないということが書かれているだけで、許可されている範囲なんでほんの一部です。どんな生き方をしても結果自分の人生で引き受けるだけです。
木登りをするような自然の中にいても見えないルールの範囲で行動をしていて、そのまま大人になっても見えないルールの中で生きているならば、実は一度も自立心を持って自分の人生を歩んだ感触すらない人もいると思います。自立心を鍛え感じる機会はいつもレールから外れたところにあります。日本で弾けるように個人が活躍するのは、大体既存の秩序が壊れ混沌がやってきた時代だったと考えています。レール自体がなくなれば自立するしかなくなります。
一方、自立を考えていくと、人間は一人では生きていけないことに気が付きます。文明は誰かの手によってつくられ、繁栄は交易によって成立しています。自立心の第二の定義は「依存先の適切な分散」です。どんなに自立心がある人も、これがなければ生きていけないものにコントロールされます。世間の賞賛が欲しい人は賞賛に、薬物が欲しい人は薬物に、安心が欲しい人は安心にコントロールされます。何かにコントロールされている時点で自立とは言えません。適度に周囲に身を委ねつつ、依存先を限定しすぎない形が私が考える継続可能な自立の形です。
しかし、もはやそんなことを考えなくても、さまざまなインフラの維持が難しくなり、安心安全を保つコスト自体が捻出できなくなり、みんなと同じ行動を取るとどんどん追い込まれるような状況が訪れ、強制的に自立心を求められる時代が来るのかもしれません。「自らの頭で考え自らの身を守り、自らの意志と力で人生を切り拓かざるを得なくなる」時代です。大変ですが、個人の可能性が開花する時代とも言えるのではないかと私は考えています。
厳しい状況の人を支えつつ、基本的には皆が自立心を持っていることを前提にして社会を構成していく。逆に考えると、自立して覚悟を決めるなら状況は好転すると思います。
いつも誰かが決めたルールの中で、「一見守られて生きている」様に見える生き方をしていると、その生き方が既に家畜であり、奴隷である事に気付けなくなる。この世は、神というか宇宙の意志で運行されており、その絶対的なルール以外には何の縛りもなく、自由しかない世界のはずなのに。
宇宙は陰陽で成り立つ世界で、プラスとマイナスは常にセット。何かを得れば、必ず何かを失っている。その基本法則を踏まえた上で、人は基本的には自分が心の底から望む事をやればいいし、それを通せば何処かで知らないうちに他者の役に立っているのだと思います。
僕はトレーナーとして、肉体を通して 人間に与えられた本来の力を発揮させるための能力開発を指導しているのですが、ほとんどの人は自分で自分を見えない檻の中に閉じ込めてしまっている。それは自分の心で作っている縛りで、その元になっているのは親や友達、そして社会から幼い頃に植え付けられた「呪い」みたいなもの。
その檻を壊して外へ出れば自由な世界があるのですが、その中に長く居た人はその中が「居心地のいいぬるま湯」になっていて、出たくなくなっているんですよね。外の未知なる世界に出たくない。
「檻の中の自由」に慣れきっていて、外の本当の自由が怖くなっている。
自分から、心の内に在る想いを積極的に発言したり、ネットなどを使って周囲に発信が出来ない人。
そういった人は、皆、この為末さんの文章にある「失うリスクを取れない人」なのだと思います。
今、こういう状況になって、「ここから先、我々はどちらの道を選ぶのか?」を突き付けられている。ここで必要なのは、「自立」ではなく、僕は「自律」だと思っています。弱くて群れを為す習性の生き物である人間には、本当の意味での自立など出来ない。ネコの様に親離れした後は、群れずにたった一人で生きていくという事が出来ない生き物。
そんな人間に出来るのは、「自分の意識や生き方をコントロールする」という意味での「自律」なのだと思うのです。自分の生き方を決める、どちらの道を選ぶかを自分の意志で選択する。自分自身で決めてコントロールする自律。
ノアの箱舟、神道で言うなら「神様の仕分け」、スピ系でいうアセンションといった感じで、神による何らかの審判が行われれているのだろうと考えています。自分がやっている活動も「ノアの箱舟」の一隻になれたらいいんですけどね。