人は変われる⑤
「トラウマは存在しない」
「原因論」と「目的論」の違いを説明しよう。
例えば、あなたが風邪で高熱を出して医者に診て貰ったとする。医者が「風邪を引いたのは、昨日薄着をして出かけたからです」と、風邪を引いた理由を教えてくれた。
あなたはこれで満足出来るだろうか?
普通は、満足できないはずだ。
理由が薄着であろうと、雨に降られたせいであろうと、そんな理由が知りたいのではなく、問題は今、高熱に苦しんでいるという事実であり、症状である。
医者であるならば、何らかの専門的処置を取って、治療して欲しいと望むはず。
ところが、原因論に立脚する人々、例えば一般的なカウンセラーや精神科医は、ただ「あなたが苦しんでいるのは、過去のここに原因が在る」と指摘するだけ。
また、「だから、あなたは悪くないのだ」と慰めるだけで終わってしまう。
いわゆるトラウマの議論などは、原因論の典型である。
アドラー心理学では、トラウマを明確に否定する。
フロイト的なトラウマの議論は、興味深いものだ。心に負った傷(トラウマ)が、現在の賦王を引き起こしていると考える。人生を大きな「物語」として捉えた時、その因果律の分かりやすさ、ドラマチックな展開には心を捉えて話さない魅力がある。
しかし、アドラーはトラウマの議論を否定する中で、こう語る。
「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。我々は自分の経験によるショック、いわゆるトラウマに苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。
自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」と。
続く
i一見すると、厳しく見えるけれど、実は可能性に満ちた優しく温かい教え。
それがアドラーの教えだと思いますが、原因論にこだわりたい人にとっては苦痛でしかなく、自分を甘やかしてくれるフロイト的な「トラウマ」の思想にこだわりたくなるんでしょうね。
現代人は大人になっても、精神的な意味ではなかなか大人になり切れず、子供の頃や若い頃の「トラウマという逃げ道」にずっとこだわり執着し続けている人が多い。
でも、トラウマを受け入れている限り、自分の中のインナーチャイルドから解放される事はなく、ずっと自分で自分を苦しめるだけになると思うんですよね。でも、人間どこかで「自分の過去=トラウマ」としっかりと向き合い、決別しなければならないのだと思います。
「自分が向き合いたくない課題から逃げるためにとても便利な道具」=「トラウマ」を設定して、それを自分自身にも信じ込ませ、周囲の他人にも強要して、自分の本心と向き合う頃から逃げていたのだ、と気付いた時、「真の自由=まさに”自らに由る”」を手に入れる事が出来るのだと思う。