生きがいの夜明け③

続きです。

第4節 「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する研究の正当性

 以上のような「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する研究は、科学的かつ学術的観点からどのように評価することができ、また研究テーマとして、どれほど魅力あるものなのだろうか。本説では、これら2つの観点から検討を加えてみたい。

1. 死後生仮説の科学的説得力

 「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究は、科学的かつ学術的観点から、どのように評価することができるのだろうか。超自然現象を批判的に究明する「ジャパン・スケプティクス」の副会長である立命館大学の安斎育郎教授は、次のように語る。

 「死の淵に立った人が、『死後の世界』を信じて死のうが、信じないで死のうが、死の尊厳に変わりはありません。死後の世界を信じる、信じないは、個人の価値観の問題であって、科学が介入する余地はないでしょう。

しかし、『死後の世界論』が『科学的体裁』で展開されるような場合には、科学の立場を明確にする必要が生じます。」

 「もしさんざん調べた結果、やはり現代の科学とは矛盾する現象だということがわかったら、素晴らしいことです。

その時こそ、科学が飛躍的に進歩するチャンスです。そんな時には遠慮なくいったん現代科学の体系を捨て、新たに見つかった事実もうまく説明できるように知識の体系をもう一度組み直せばいいでしょう。科学はこれまでもそのようにして進歩してきたのですから、いまさら変わった考え方をとる必要はないでしょう。」

 「超心理学の最先端の論文を批判するには、心理学の先端的知識に裏打ちされた専門家集団による検討が必要であり、私のように、本来、放射線防護学や国際平和学を専門とする経験の浅い懐疑派が片手間に検討して済むような問題だとは思いません。」

 安斎教授は、現在信じられている物理学の法則に反する仮説に対して、頭から「否定のための否定」はせず、あくまでも「懐疑派」の立場を強調しているが、これは科学者として賞賛すべき姿勢である。同様に、国際的に知られた生理学者である浜松医科大学も高田秋和教授は、臨死体験を既存の法則によって説明しようと努力した末に、先入観にとらわれない科学的態度を勇気を持って貫き、科学と宗教の今後の関係を次のように推測している。

 「今までは、科学は、宗教の非科学的な面を解明し、追求する役割を担っていると考えられていたと思います。つまり、科学により、宗教は説得力を失ってきたといえるでしょう。臨死体験は、逆に、将来、宗教的真理に支持を与えるものとして注目を与えるように思えます。」

 そこで、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する分野の専門家たちが、この問題の研究成果をどのように評価しているのかについて着目してみよう。まず、アリゾナ大学のロバート・カステンバウム教授は、臨床心理学者の立場から、これらの仮説の証明方法について、「第一に念頭に置くべきことは、きちんとした記録がひとつあれば十分だということである。本当は百も千も必要ではない。」と強調する。

 例えば、50人の被験者に「空中に浮かんでください」と指示したところ、49人は失敗したが、1人だけは地上1メートルの所に浮かんだとする。この結果を見て、「50人中49人も失敗したのだから、人間が空中に浮かぶことができるとは言えない」とか、「1メートル浮いただけでは証拠として不十分だ。やはり人間は空中に浮かぶことはできないに違いない」などと結論づけようとするのが、現在の否定論者の論法だという。本来ならば逆に、「成功したのは50人中1人だし、わずか1メートル浮いたにすぎないが、確かに人間が空中に浮いている。少なくとも、人間は空中に浮くことができるのだ」と結論づけるのが科学的解釈であり、むしろ、「どうして空中に浮くことのできる人とできない人がいるのか」「浮くことのできる条件は何か」という命題にこそ、論点が移っていくべきだというのである。

その上で、カステンバウム教授は、次のように指摘する。

 「一部の反対派が、しっかりはしていても完全ではない証拠を認めたがらないのは、ただ『死後の生存を認める』のが嫌なのだということを物語っている。証拠を認めるのをためらうのと、反証するのとでは大違いである。

我々がこれまでに見てきた、死後の生存を裏づける証拠の大部分には、死後の生存を否定するものは何もない。ただ一部の人が、証拠に限界や欠陥があるかもしれないと思う限り、死後の生存を認めたがらないだけのことである。もしも、これと同じ考え方で科学一般のデータが扱われたとしたら、教科書は今よりもずっと薄くなることだろう。」

 同様に、エリザベス・キューブラー=ロス博士は、いくら科学的な証拠を示しても認めたがらない否定論者たちに対して、皮肉たっぷりにこう述べる。

 「私が何を申し上げたいのか、お分かりですか。ある事実に納得がいかないと、人はそれを否定する何千もの反論を持ち出してくるのです。再度言いますが、これはその人自身の問題であり、そのような人を無理矢理に説得しようとしてはなりません。いずれにしても、死ねばわかることなのです。」

 彼女が述べるように、「否定のための否定」に終始して心を開かない論者たちを説得するという益の少ない行為よりも、人生に絶望している人や死の恐怖に震える人に対してこれらの知識をきちんと伝えることの方が、はるかに優先すべき課題なのである。

 さらに、ブライアン・L・ワイス博士は、科学の進歩の歴史を例にあげながら、次のように指摘する。

 「歴史を振り返ってみても、人々は変化や新しい考え方に対して、いつも大きな抵抗を示してきた。そのような例は枚挙にいとまがない。ガリレオが木星の月を発見したとき、当時の天文学者たちはそれを受け入れようとしないばかりか、衛星を目で見て確かめようともしなかった。木星の月の存在は、自分たちが信じている仮説と矛盾していたからだ。

現在もそれと同じことが起こっている。精神科医やセラピストたちは、肉体が死んでも魂は生き続けるということや、過去生の記憶などについて数多くの証拠を調査することはおろか、評価することさえも否定している。彼らはしっかりと目を閉じているのだ。」

 数多くの証拠を評価することさえも否定し、しっかりと目を閉じているの研究者は、精神科医やセラピストばかりでなく、物理学者にも多いと思われる。物理学という学問の性質上、「現在わかっている普遍的な法則に合致しない」という理由で見ぬふりをしているか、頭から否定しようとして読むために、いかなる証拠も「不十分」と決めつけるかのいずれかであろう。しかし、高エネルギー物理学の世界的権威でありNASAの主任研究員勤めた神奈川大学の桜井邦明教授は、著書『宇宙には意志がある』において、「人生は一度きりである」と物理学的に解釈しながらも、一方では次のように明言している。

 「そもそも、科学的法則や理論というのは、私たちが経験した現象に対する、一種の解釈にしかすぎない。現在の宇宙論にしたところで、これまでの観測結果を合理的に説明しようとして作り上げた解釈の一つであって、これが唯一無二の真実であるとは言い切れないのである。インフレーションではじまるビッグバン宇宙論が、今後、永久に変わることのない正しい説明なのだと断言できる研究者は、たぶん1人もいないだろう。」

 しかも、本稿で整理した「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究結果は、現在最も合理的だと考えられている物理学の普遍的法則や、生物学の進化論などを、真っ向から否定するものではない。むしろ、これらの分野の研究者が先入観抜きで客観的に検討すれば、現在の物理学や生物学、遺伝学の法則では理解しにくい現象が説明されたり、それらの法則に新たな視点や切り口を与えてくれることだろう。それは、理学系以外の学問分野においても同様であり、例えばジョージア大学哲学科教授のロバート・アルメダー博士は、近年の具体的事例を幅広く分析したうえで、次のように結論づけている。

 「この2,30年の間、生まれ変わり、霊姿、憑依、体脱体験、死者からの通信といったものに関する証言が、科学的な方法を用いて検討されるようになった。こうした研究の成果は、哲学者の立場から見て印象的なものであり、私見によれば、死後にも何らかの形で存在を続けるとする考え方を裏づける強力な証拠となっている。死後の生命という考え方は、最強の懐疑論の猛襲にも耐えられる、というのが私の結論である。死後には何も残らないと考えるよりは、何らかの形の生命が存在すると考える方が、理にかなっているのである。」

 わが国でも、心理学者である愛媛大学教養学部の中村雅彦助教授は、臨死体験を正面から取り上げた著書において、公正な立場から次のように強調している。

 「生まれ変わりを信じる、信じないは、個人の思想、信条の自由である。しかし、科学の世界では、生まれ変わりが本当にあるのか、ないのか、その真実性を問題にする。そのためには、たくさんのデータを集めてこなければならない。私は、何らかの結論が出るほどのデータが集まるまでは、その可能性を否定しないと言う姿勢を保ちたい。」

 しかも、中村助教授は、既存研究を客観的に分析したうえで、「生まれ変わりがあり得る」との判断を示し、勇気を持って次のように告白している。

 「最初は、トリックやでっちあげを暴いてやろうと思って文献購読を始めたのだが、読めば読むほど厳密な研究の姿勢に感心して、同時に人の心の時空を越えた広がりを実証するのは、こんなにも難しいものかと驚きもした。気がついてみたら、ミイラ取りがミイラになってしまっていたのである。」
 このような、当初は否定しようとして始めたにもかかわらず、結局は肯定せざるを得ない結果に終わってしまい、科学者として謙虚な姿勢を余儀なくされたという経緯を、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する多くの研究者が記していることは興味深い。彼らにとって、「死後の生命」や「生まれ変わり」を認めることは、決して研究者として得策ではなく、とりわけ研究の萌芽期には(日本では未だにこの期を脱していないが)、むしろ学会から白眼視される危険性が極めて高かったのである。彼らの研究成果を先入観抜きで検討するならば、「否定のための否定」しか頭にない非科学的姿勢の研究者を除いて、公正な懐疑論者を、「主観的には信じたくないが、客観的には認めざるを得ない」という複雑な心境へといざなうに充分な説得力を持っていることがわかる。
 しかし、本稿は、否定論者の説得を目的とするものではない。ここでは、各国の真面目な研究者たちが損得を抜きにして「認めざるを得ない」と告白する言葉の数々が、時に感動的ですらあるほど、勇気と使命感に満ちていることをのみ指摘しておきたい。
2. 死後生仮説の優位性
 「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究は、その科学的真偽の議論とは別な次元において、これらを否定する論者に対する絶対的な優位性を持っている。これについては、通常あまり注目されてはいないが、本稿のように「知識を広めること自体が発揮する効果」を強調する場合には、不可欠な論点だろう。
 私の専攻する経営学では、競合企業を打ち負かすために、いわゆる「接待優位の戦略」を立案することが望ましいとされる。絶対優位の戦略とは、事態がどのように進展しようとも、最後には自社が勝利を収めるようなシナリオを、シミュレーションによって描いたものであると理解すればよい。「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究は、少なくとも2つの観点において、否定論者に対する優位性を保持している。

(1) 「死後の生命は存在しない」ことを「科学的に実証する」ことは不可能である
 「死後の生命は存在する」という命題については、データを蓄積することや、管理された研究条件のもとで科学的に実証することが、方法論的に可能である。その反面、「死後の生命は存在しない」という命題の場合、当然ながら、そもそも存在しないもの自体を確認することは不可能である。そのため、否定論者は、肯定論者が「存在する」という証拠をひとつひとつ検証し、その全てについて「証拠として認められない」ことを公正な立場から確認する必要があり、全ての証拠が否定された段階で、ようやく「現在の所、死後の生命が存在するという証拠はないため、死後の生命は存在しないものと思われる」という科学的推論を導き出すしか方法がないのである。
 しかし、死後生存の証拠が全て否定されたとしても、あくまでも「現在のところは」という条件付きであり、将来、決定的な証拠が見つかる可能性は十分にある。したがって、「死後の生命」というテーマについては、論理的に見て、
「肯定できるだけの決定的証拠はないが否定する方法もない」か、「肯定できるだけの証拠が得られた」かという、2つの状態しかあり得ない。言い換えれば、肯定論者が「悪くても現状維持、おそらく明るい未来」という希望を持つことができるのに対して、否定論者には「ひたすら頑張っても現状維持、もしかすると敗北」という未来しかないのである

(2)死後にも意識があった場合、否定論者は自分の誤りを知ることになるが、死後は無に帰してしまう場合、肯定論者の意識はなくなるため自分の誤りを知ることはない
 「死後の生命」という命題の回答は、「死後にも意識があるか、ないか」の2通りしかない。したがって、次の理由から、死後にも何らかの形(例えば「魂」)として覚醒しており意識があると考え、そう主張しておく方が、論理的に見て絶対的に優位なのである。
 具体的に考えてみよう。肯定論者の場合、実際に自分が死んだ後に意識があれば「やはり思っていたとおりだ」と満足することになるし、万が一、無に帰してしまい意識などなかったとしても、意識自体がないのだから「しまった、やはり死後には何もなかった」と知ってがっかりすることもない。しかも、かりに死後は何も残らなかったとしても、本人は最後まで死後の生命を信じて、希望を抱きながらこの世を去ることができる。
 一方、否定論者の場合は、事態がどう進展しようとも、芳しくない結果となる。なぜなら、自分の主張の正しさが証明されたとしても、すでにその時には自分の意識もないのだから、死後に自分の勝利を味わうことは決してできない。しかし、万が一、死後にも自分の意識があった場合には、本稿で紹介したように、自分の誤りを知って衝撃を受けたり、唯物論的な生き方をした自分の人生に対して猛烈な反省を促されることだろう。もしかすると、先立っていた肯定論者の魂たちから、「そらみろ、やはり死後にも意識があったじゃないか」と糾弾されるかもしれない(魂の状態に戻ると極めて寛容になるので、実際には糾弾されたりはしないだろうが)。しかも、本人は、死後には無に帰してしまうだけだと思いながら死んでいくため、それまでの人生に充実感が乏しい場合には、後悔に満ちた、寂しく、希望のない死を迎えることになる。死は全ての終えんであり、喪失以外の何者でもないのである。
 このように整理すると、肯定論者は事態がどう進展しても幸せ感を得ることができるのに対し、否定論者には、いずれにしても朗報はもたらされないことがわかる。
 以上の2つの観点を見ると、戦略的に絶対優位の立場にいるのがどちらの論者であるかは明白である。「死後の生命」や「生まれ変わり」については、疑わしきは信じないよりも、例え疑わしくても信じていた方が、むしろ理性的なのである。しかも、これらについては、科学的に認めるか認めないかは別にして、個人的価値観として信じながら生活する方が、心理的に様々な利点を持つと考えられる。
 そこで次に、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究結果を、情報として広く伝えることの意義について考察してみよう。
第5節 「死後の生命」と「生まれ変わり」に関する研究の
有効性
 「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究は、その科学的正当性の議論とは別の次元で、研究成果の存在そのものが大きな社会的役割を有している。本説では、その社会的役割、すなわち我々人類に対して発揮する様々な有効性について考察してみよう。
 まず、超常現象を批判的に検討する安斎育郎教授は、「神は実在する」という命題は科学的命題であり事実に照らして調べるべきだが、「神を信じることは素晴らしい」という命題は価値的命題であるため各人の自由であり、科学がとやかく言う問題ではないと述べたうえで、次のような例をあげる。
 「死の危機に直面している人が、丹波哲朗さんの『大霊界』を読んで、『人間死んでも素晴らしい世界が待っているんだ』と信じて心安らかに使途につくのを見て、『非科学的な死に方だ』などというのは余計なお節介というものでしょう。『死後の世界』が実在するかどうかなどということに頓着せず、それをひたすら信じて心豊かに生きるのも、ひとつの価値観の選択であって、当人の自由です。」
 このように、科学的論争はさておき、少なくとも、「死後の生命を信じることが心豊かな生活につながる」という点については、安斎教授もその有効性を認めていることがわかる。同様に、哲学者のゲイリー・ドーア博士は、次のように主張する。
 「真実であることを立証する充分な証拠がない限り、決して何も信じるべきではないという原則(理性原則)は、現代の科学者や哲学者の間では極端なまでに広まっている。それは、信念にかかわる事柄に対して『情におぼれない現実的な』姿勢を保っていることを示す証明書であり、科学的思想家の誇りなのだ。また実際、科学者や学者のような人があまり物事を軽信しないよう心がけるのは、明らかによいことではある。しかし、理性原則はいかなる種類の信念に対しても有効なのだろうか。何かを信じる場合、人は常に十分な証拠が揃うのを待たなければならないのだろうか。どうも、そうではないようだ。」
 ドーア博士は、理性原則が有効でない例として、「妻・夫あるいは恋人は、自分を裏切っていない」という信念をあげる。もしも「十分な証拠がない」としてこの信念を拒否するならば、2人の関係はおそらく長続きしない。この種の問題では、十分な証拠を求めること自体が、不必要な緊張、不快感、人間関係の破壊をもたらしてしまうため、それを科学的基準によって証明するよりは、たとえ証拠が不十分でも信じて妥協する方が得策なのである。この事例が示しているのは、人が何を信じるべきか否かを決める際に、必ずしも常にその証拠を考える必要はなく、「信じることがもたらす結果の有効性」を考慮した方が望ましい場合もあるということである。むしろ、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する研究結果をきちんと読みもしないで、先入観から「否定のための否定」をする論者たちの方が、よほど非科学的であり、社会に望ましくない影響を与えている。「スプーン曲げ」の超能力を否定することと、「死後の生命」を否定することとでは、有する意味が全く異なるのである。
ドーア博士は、次のように結論づける。
 「たとえ死後の生命の証拠が、科学的基準に照らし合わせて決定的なものではなかったとしても、その存在を自分の人生で『検証する』という目的を持って信じることを選びとるならば、その姿勢は理性的なものである。また、たとえ否定的な証拠や自分で納得のいかない部分があったとしても、熟考した末の決心でその信念を支持することは、『ある理論の妥当性を研究室で検証中であるにもかかわらずその理論を支持している科学者』が正当であるのと同じように、正当なことである。」
 すなわち、超常現象に懐疑的である安斎教授も、「死後の生命」はすでに超常現象ではなく科学的事実だと認めるドーア博士も、ひとつの点において見解が一致していることがわかる。それは、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する知識が、その真偽の議論とは別に、それを信じる人々に対して望ましい心理的影響を与えるということである。
その影響が、その人の人生観や生きがい感に与える影響であることは、いうまでもない。
 それでは、専門家が見る生きがい感とは、どのようなものなのだろうか。まず、上智大学の小林司教授(医学博士)は、「生きがい」の意味について次のように解釈する。
 「どうやら、自分が生きている価値や意味があるという感じや、自分が必要とされているという感じがあるときに、人は生きがい感を感じるものらしい。必要とされているということは、自分が生きていることに対する責任感であり、人生において他ならぬ自分が果たすべき役割があるということを自覚することである。生きがい感は生存充実感であって、感情の起伏や体験の変化を含み、生命を前進させるもの、つまり喜び、勇気、希望などによって、自分の生活内容が豊かに充実しているという感じなのである。」
 また、兵庫大学の上田吉一教授(教育学博士)は、「生きがい」を持つための条件として、「人生に希望を持っていること」「自らの役割の自覚があること」「明快な価値観に支えられていること」「アイデンティティを失わないこと」「根性を持って障害に立ち向かうこと」の5つをあげている。
 この両者が語る「生きがい」感からは、要するに「自分は何者か」「自分はなぜ生きているのか」「自分は人生において何をなすべきか」といった問題意識が明確であること、そして、できれば自分なりの回答を持っていることの必要性が訴えられている。逆に言えば、自分のことに興味がなかったり、自分が生きている必要性を感じなかったり、何も目的意識がなく毎日をただ生物として漫然と生きているだけであるような場合には、「生きがいのない人生」ということになるであろう。
 それでは、「死後の生命」や「生まれ変わり」に関する知識を持つことが、我々に生きがいを与えてくれたり、生きることの意味を見直させてくれるという考えは、本当に正しいのだろうか。そうした主張は、考え方としては理解できるが、実際に検証することができるのだろうか。このような疑問に答えてくれる事例を、いくつか紹介しよう。
 まず、コネティカット大学医学部精神科のブルース・グレイソン教授は、「臨死体験をした自殺未遂者たちは、二度と自殺を企てない」という命題を検証した。「死後の世界」があるのならば、むしろこの世に絶望したものは、「一刻も早く自らの肉体を去り、楽しいあの世へと移行したい」と考えても不思議はない。この点は、「死後の生命」や「生まれ変わり」の研究成果を広く普及させるにあたって、最も配慮すべき問題点である。これらの知識を知らせたおかげで、かえって気楽に自殺する者が増えてしまったり、自殺にまで至らなくても、「どうせ何度でも生まれ変わるんだから、身体を粗末に扱って早死にしても構わない」などと考える者が増加したのでは本末転倒だからである。
 しかし、結果は極めて望ましいものであり、臨死体験をした自殺未遂者は、二度と自殺を企てようとはしないことがわかった。その理由について、グレイソン教授は、「死が終わりではない」ということを知った結果、あるいは、「何らかの理由で自分は死後の世界から送り出されたのだ」と信じることからくる効果であると分析し、この効果によって、人は自分自身をより許容するようになり、「自殺が問題からの逃げ道にはならないのだ」という事実を知るようになると指摘する。そのうえで、グレイソン教授は、次のように強調している。
 「このような研究を続けていくことにより、我々はやがて、高次の意識レベルへの人類進化という大きな問題について、新しい洞察を得ることができるようになるだろう。臨死体験が重要なのは、死との関連においてではなく、生との関連においてなのである。」
 ちなみに、ポリツィアンとエリソンがアメリカで行った心理学的調査によると、信仰心のある人は、そうでない人に比べて、孤独感に陥ることがないという。中でも孤独感に対して最大の相関にあるのは、「自分の人生にはある種の目的が存在していると思う」か、逆に「自分が何者であり、どこから来てどこへ行くのかがわからない」かという実存的幸福の尺度であった。すなわち、「自分の人生にはある種の目的がある」と思うことができれば、我々は孤独感を持たないで生きていくことができるのである。
 また、コムストックとパトリッジの調査によると、信仰心は、幸福感のみならず、現実の健康にも良い効果を及すことがわかっている。信仰心のある人ほど、心臓病や肺病、肝硬変やガンに冒される率が、明らかに低かったという。その理由としては、信仰心のある人々は酒や煙草を自重し性の乱れもないこと、そして信仰心が心の平安を生み
出し、それが血圧の低下を可能にすることなどがあげられている。
 もちろん、信仰心を持つことと、「死後の生命」や「生まれ変わり」を信じることは、全く同じではない。信仰心とは、通常、特定の宗教の神あるいは教祖や教義に対するものであり、必ずしも科学的な知識に裏づけられている必要はないからである。しかし、宗教としての「死後の生命」や「生まれ変わり」を信じることも、科学的観点からこれらの仮説を認めることも、結果においては同じである。それは、上述の事例からもわかるように、これらを信じたり認めることによって、「自分は何者か」「自分はなぜ生きているのか」「自分は人生において何をなすべきか」という問題意識が明確になり、それらを自問する事ができるという効果にほかならない。このような、生きがい感の向上効果について、ジョエル・L・ホイットン博士はこう語る。
 「最も重要なのは、中間生を知ることによって、一人一人の責任が非常に大きくなることである。この世は、中間生で計画したことが試される場所だ、と認めるなら、毎日の生活は新たな意味と目的に満ちたものとなる。そして、たとえこの世の環境がどんなに困難であったとしても、短い人生を終えた時、人間は、愛の根源の美と雄大さのうちに包み込まれる。中間生こそが私たちの住むべき世界であり、地球という惑星は、魂の進化のために必要な試験場であるにすぎない。我々がここにいるのはなぜなのか、また何をしなければならないのか・・・・超意識の研究は、我々にそのことを理解させずにはおかない。」
 この言葉には、「死後の生命」や「生まれ変わり」の仕組みを研究することの意義が、端的に示されている。全てのことには意味があり、自分の人生は、自分が自分に与えた問題集であること、そして自分を取り巻く人々は、愛してくれる人も敵対している人も、みな理由があって自分の成長のために存在してくれていることを知った時我々の人生観は大きく揺さぶられる。それは、他のいかなる表面的なカウンセリング技法によっても成し遂げることのできない、まさに価値観の本質的な揺らぎと転換であると言えよう。
 子供を亡くした親や、親を亡くした子供は、わが子や親がこの世での勤めを無事に果たして帰還したこと、いずれはあの世で再会できること、そしてこの世においても、常に自分たちのそばで見守ってくれていることを知る。どうしても今すぐに会いたければ、前述したレイモンド・ムーディ博士の「精神の劇場」を訪問すると、生前の姿のままで言葉を交わすことができる。たとえアメリカにまで出向かなくても、「我慢できなくなったら精神の劇場へ行こう」と思うだけで、どれほど心の支えになることだろうか。
 事故で手足を失った若者や、障害を持って生まれてきた人々は、それが誰のせいでもなく、自分自身で計画した試練であり重要な理由があること、その試練に打ち勝てば大きなご褒美が用意されていること、また次回の人生では、再び完全な身体として生まれ変わることを知る。これらの情報を知らないうちは、自らを襲った悲劇は不幸以外の何物でもなく、ただ暗たんたる人生が待ち受けていたにすぎない。しかし、「死後の生命」や「生まれ変わり」の仕組みを理解すると、全ての悲劇に貴重な意味が生まれ、単なる不幸が成長への機会と変貌し、多くの「魂」たちが常に激励してくれていることに勇気づけられるのである。その結果、「たまには、こんな人生を送ってみるのも悪くない。どうせなら大いに楽しんでやろうじゃないか」という意欲がわいてきたならば、それはまさに、「魂」たちからのメッセージであるに違いない。事実、数多くの退行催眠の事例をもとに、ブライアン・L・ワイス博士は次のような結論を出している。
 「重い精神病や肉体的な欠陥などのように深刻な問題を持つことは、進歩のしるしであり、退歩を意味しない。私の見解では、こうした重荷を背負うことを選んだ人は、大変に強い魂の持ち主だ。最も大きな成長の機会が与えられるからである。
もしも、普通の人生を学校での一年間だとすれば、このような大変な人生は、大学院での一年間に相当する。退行催眠をかけると、苦しい人生の方がずっと多く現れてくるのは、そのためである。安楽な人生、つまり休息の時は、普通はそれほど意味を持たないのである。」
 また、まもなく死を迎える時、「死後の生命」や「生まれ変わり」の仕組みを知っていれば、どれほど心安らぐことだろう。「死ぬ」ということは、ただ「肉体」という衣服を脱いで取り替えるだけにすぎないこと、次にどのような衣服を着るかは自分で選択できること、先立った懐かしい人々との再会が待っていること、この世に残す家族はやがて自分が迎えに来ればよいことを知っていれば、死の瞬間をどんなに大らかな気持ちで待つことができるだろうか。
「さて、次はどんな人生を計画してみようかな」と、洋々たる未来を想像することができれば、死に際しても楽しい気分でいることができるに違いない。
 人間関係の悩みを抱えている場合にも、「死後の生命」や「生まれ変わり」の仕組みを知ることによって、新たな視点から関係を見直すことができる。親子や夫婦、親友や宿敵などの人間関係には全て深い意味があり、それらの人々は、過去何度もの人生を、深くかかわり合いながら共に修行してきた、いわば「戦友」なのである。現在反目し合っている宿敵でさえも、「今回の人生では敵同士に分かれて、互いに許し合うことに挑戦しよう」と約束して生まれてきたに違いない。研究者たちの報告は、この世で出会うあらゆる人々に対して、愛情と感謝を注ぐことの必要性を訴えている。とりわけ、両親に感謝することの大切さについて、エリザベス・キューブラー=ロス博士は、このように語る。
 「死とは、ただこの世から、痛みも苦しみもない別の存在へと移るだけのことだ。つらい思いも、いさかいも全てなくない、永遠にあるのは愛だけである。だからこそ、今、愛し合って欲しい。なぜなら、私たちは誰でも、自分に命を与えてくれた人たちと、あとどのくらいこの世で共に過ごすことができるのか、わからないからである。たとえ、どんなに不完全な親だったとしても・・・・」

続く

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