観の目 / 素直さと頑固さの共存

いい記事を読んだので、紹介。https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2022/11/15/2095/index_2.php?fbclid=IwAR0lthkQAC2rIiZli8pOZLw0h26OTtNcw6ikFhsWd-hU1YKi34gS6Js9rsk

【観の目】

「盗む」ためには「観の目」が必要。

言葉では簡単に言えるけど、人はなかなか「見の目」から離れられないもの。

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僕らのときは見せない時代だったんです、練習を。ましてや教えてくれない。だから試合で盗みました。両リーグで首位打者を獲った江藤慎一さんが移籍してきたときには、一ヵ所、左足の使い方を盗んで。巨人戦で左の高橋一三が外にチェンジアップを投げたとき、江藤さん、真っすぐを打ちにいってるのにパッと止まったんですよ。

 普通はタイミングずれて打てないのに、レフトスタンドまで運んだんです。そのとき、見たら、踏み出す足、左足のかかとがかなり浮いていて、ハッと思った。自分は足が平らになっちゃうから下半身を使えないんだ、浮かせておけばまだ使えるんだ、オレに足りないのはこれだ、と思って盗ませてもらったわけですよ。

【素直さと頑固さの共存】

これ、凡人にはそのバランスが非常に難しい所ですね。

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ただ単に素直なだけじゃ、プロの世界で続かないでしょう。

素直が妥協になったらダメだし、グラウンドに出たら『お前なんかに負けるか』とかね、そういう部分も必要じゃないですか。

【覚悟の差】

「王さんと首位打者、打点王を争ったとき、すぐにでも追いつけそうな気がしてました。でも、実はそうじゃなかったってことを、巨人に移籍して知ったんです」

 81年2月のキャンプ中、同年から助監督になった王のミーティングが一度だけあった。王はその席でこう言った。

「いいか、プロ野球選手の現役生活というのは、一般のサラリーマンに比べて3分の1しかない。だから、我々は1日を3倍に生きよう。練習でも試合でも、そのことを忘れないでほしい。オレは人の3倍、いや、もっとやってきた自信がある」

 松原さんにとっては衝撃的な言葉だった。

「僕も王さんと同じぐらい練習を積んできたはずです。だけど、はっきり3倍という意識はなかった。そこに大きな差があったんですね。例えば、現役時代の王さんは試合前、外野のフェンス沿いで必ず100何十メートルを20本走ってた。『あんなに走らないでもっとセーブしたら、まだ数年は現役続けられたでしょう?』と言ったら、『マツ、それは違う』と返されました。

『走ることの効能はわからん。あれは精神的なバックボーンだったんだ。お前と違うよ、お前と同じ舞台でやってないんだよって思うためのランニングだった。それができなくなったからやめたんだ』と……。こんな人に勝てるわけないですよね。僕は、負けるべくして負けたんです」

 王というスーパースターがいかに「スーパー」だったか、これほどリアルに感じられる逸話もない。話はさらに続いた。

「仮に、打率1厘差で首位打者を獲れなかったとしても、その差は1厘じゃないんだってよくわかりました。練習量からしたら1分ぐらい違うと。他の競技でも1ミリとかコンマ1秒とか、わずかな差で勝負がつきますけど、それも数字の差じゃない。練習量に大きな差があるってことです。

 じゃあ、その練習量が目に見えてどこに現れるかっていうと、粘っこさです。僕は今、ベイスターズで1番打ってる桑原っていう選手がとっても好きなんですけど、粘っこいですよね。あの粘っこさは、人の何倍も練習やってないヤツには出てこないんです」

【目の付け所】

「目の付け所」とか「目利き」とか、最近はちょっと死語みたいな感じになってますが、昔の言葉は心の操り方を非常に巧みに表現している気がします。

地に足の着かない横文字で何でも言い表すのってアホっぽく見えるんですけどね、古いかな~?

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【目の付け所】

「目の付け所」とか「目利き」とか、最近はちょっと死語みたいな感じになってますが、昔の言葉は心の操り方を非常に巧みに表現している気がします。

地に足の着かない横文字で何でも言い表すのってアホっぽく見えるんですけどね、古いかな~?

以下、関連して少し調べたものも転載。

「観・見」二つの目

目の付け方は、大きく広く付ける目である。

「観・見」二つの目があり、「観の目」を強く、
「見の目」を弱く、遠い所を近いように見、
近い所を遠いように見ることが
兵法では必要不可欠である。
敵の太刀の位置を知っているが、
少しも敵の太刀を見ないことが、
兵法では大事である。

(宮本武蔵「五輪書」水の巻より)

「五輪書」といえば、剣術の極意が書かれた本で、私たちの生活とは全く関係ないのではないかと思われる方も多いかもしれません。私も最初はそんな先入見をもって読んでいましたが、この一節につきあたり、「これって自分が仕事をする上ですごく大切なことじゃないか!」と気づかされ、驚いたことを今でもよく覚えています。

「敵の太刀の位置を知っているが、少しも敵の太刀を見ない」。すなわち、この一節は、目先のことに目を奪われるのではなく、物事を俯瞰して状況全体をみることの大事さを訴えているのです。「見の目」は、今、動いている敵の太刀自体を見つめる、いわばクローズアップの目。そして「観の目」は、全体状況を俯瞰するロングショットの目。「観の目」を強く、「見の目」を弱く…というのがポイントです。人間はどうしても目先で今動きつつあるものに目を奪われがちだという本質を武蔵は見事に見抜いています。だからあえて「観の目」を強く、なのです。

私たち番組制作スタッフが番組作りで陥りがちなのは、たとえばナレーション原稿を書くときに「このシーンを表現する言い回しはどうしよう」「ここに言葉を当てるなら、どんな形容詞が適切か」などなど、こだわり始めると言葉の一句一句や細部にどんどん注意が集中してしまい、それを直していくことが番組をよくすることだと思い込んでしまうこと。しかし、実際は、そのシーンが番組全体の文脈の中でどんな意味をもつのか、番組の全体の流れの中で、盛り上げていくべきシーンなのか、少し抑え気味にするべきシーンなのか…といったことに常に立ち戻りながら考えていかないと、全くちぐはぐはナレーションができあがってしまうこともあるのです。いわば、常に「観の目」というものを意識していないと、よい番組は作れないわけですね。武蔵の言葉は、このことにあらためて気づかされる指南であり、私自身、この「観の目・見の目」は、仕事をする上で常に心に置いておこうと思いました。

元プロ野球選手の松井秀喜さんが「五輪書」を愛読しているという理由も、読み進めていく中で実感しました。「観の目・見の目」でいえば、今の打席でピッチャーが投げるボールをいかに打つかももちろん大事ですが、この打席がゲーム全体でどんな意味をもっているのかを考え、長打を撃つべきなのか、あるいは何が何でも出塁すべき場面なのか、あえて自分が犠牲になって犠打を打ちランナーを進めることを優先すべきか…といったことを俯瞰する視点、「観の目」が、打者としてはとても大事なんですよね。あるいは、投手の配球を全体の流れとしてみて、次に何がくるかを予測する…というのも「観の目」といえるかもしれません。

もちろん「観の目」だけが重要なのではありません。武蔵は、「観の目」「見の目」の両方を偏りなく使いわけることを指南しているのです。「空の巻」では、「毎朝毎時に怠ることなく、心意二つの心を磨き、観見二つの目を研いで、少しも曇りなく、迷いの雲の晴れたところこそ、真実の空と知るべきである」と書いています。「観見二つの目」を偏りなく両方研ぐことが、迷いの雲を晴らしていく上で大事なのだということです。

「五輪書」を、今では必要がなくなった剣術や兵法を指南する書とのみとらえるのはあまりにももったいないことです。一つの道を極めつくそうと生涯努力し続けた宮本武蔵が見つけた道理には、現代に通じる普遍性が宿っているのです。今の自分にどう役立てていくのか…そんな視点で「五輪書」を読んでもらえるヒントにこの番組がなれたら、と願ってやみません。

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