「プライスレス」な人間になる

現代を生きる人の苦しみの多くは、「他者の目」「他者による評価」によって自分の価値を測ってしまう事から来ているんじゃないかなと思っています。

自分で自分の価値を決められない。他人の基準に委ねてしまう。

勿論それが単なる「独り善がり」では困るから、客観的視点は必要になるけれど、だからといって他人の基準に合わせていると、人の価値観なんて人それぞれだから永遠に価値の基準は定まらない。価値は、時代や土地、組織によって全く変わるのが当たり前。

そういった事を考えさせられる、稲垣えみ子さんの記事を読みました。この方の本、だいぶ前に読んだ事があるのですが、発想が物凄く独特で面白かったですね。脱原発を考え、自分にも出来る事をやろうと節電して真っ暗な中で暮らすエピソードとかあるのですが、メチャクチャ面白かったです。興味ある人にはオススメ。

以下、記事を抜粋して紹介したいと思います。

「地球にも財布にも優しいメルカリ」を使わない訳
大量の本を売ってわかった「お金の新常識」

疫病、災害、老後……。これほど便利で豊かな時代なのに、なぜだか未来は不安でいっぱい。そんな中、50歳で早期退職し、コロナ禍で講演収入がほぼゼロとなっても、楽しく我慢なしの「買わない生活」をしているという稲垣えみ子氏。不安の時代の最強のライフスタイルを実践する筆者の徒然日記、連載第30回をお届けします。
使い捨て文化に一石を投じた「メルカリ」

前回、収納のない家への引越しで新居に入りきらないものを処分するにあたり、人生で初めて「人にあげる」楽しさに目覚めたことを書いた。
だが改めて考えてみれば、今さら私がまるで大発見でもしたかのようにそんなことを書かずとも、不要品を他人に譲るなんて当たり前! という人は案外多いのではないだろうか?
何しろ今や、スマホ1つで10分もあれば不用品を売りに出せるのだ。

人気のフリマアプリ「メルカリ」は月間利用者数が2000万人を突破したそうで、これほどお客さんがいれば、とても売れるとは思っていなかったようなものも案外売れたりするらしい。となれば、愛用したものをゴミ箱に捨てずに済むし、それどころかお金まで手に入る。人気が出るのも当然の、大変よくできたシステムだ。
メルカリの浸透は、使い捨て文化に一石を投じたとも言われる。
というか、そもそもモノのあふれる社会の中でもモノを使い捨てることに内心忸怩たる思いを抱いていた人がたくさんいたからこそ、メルカリが人々の心をつかんだのだろう。

使わなくなったものも捨てるとなれば心が痛む。でも他の誰かに使ってもらえるとなれば心置きなく手放せるし、さらには手に入ったお金で新しいものを買うこともできる。
それを使わなくなればまたメルカリに出し、手に入ったお金でまた新しいものを……という永遠の循環の中に身を置くこともできる。財布にも地球にも優しい。まさしく良いことづくめではないか。

うん。
でも。

それはそれと承知のうえで、私はメルカリを使わないことにしているのである。
なぜなのか。そのことを今回は書こうと思う。

僕は使った事がないのですが、メルカリかなり普及しているみたいですよね。

捨てずに売る、それがどこかで有効に使われているっていいシステムだと思います。何か細かい問題や裏側に何かあるかもしれないけど、とりあえず聞いた範囲では良さそうですよね。

ここから先の所、凄く考えさせられましたね。今の社会の根本的な問題だと思う。

古本屋での衝撃の「事件」

きっかけは、例の退社に伴う引越しで大量のモノの処分を迫られた時の、ある「事件」だった。
収納ゼロの新居に入りきらない服や食器は「フリーボックス」に入れて新たな持ち主に引き取っていただいたことは前回書いたとおりだが、一つだけ、フリボに入れなかったものがあった。

本である。本だけは、近所の古本屋さんに持って行ったのだ。
というのはですね、本の捨て難さは服や食器とはまた別で、フリボに入れて見知らぬところへ行ってしまうことにはどうも抵抗があった。「また読みたくなるかも」という気持ちを拭い去ることができないのである。

どうしたものかと悩んでいた時、たまたま近所のオシャレな古本屋さんを発見。棚を見ると読んでみたい本ばかりで、お、いい店見つけたネ、この店があれば私、一生読む本には困らないナ……とホクホク考えていてふと、とても良いことを思いついたのである。
これからは、この店を「わが家の本棚」に勝手に指定してしまえば良いのではないだろうか?
狭い家に本を囲い込んでおかずとも、家に入りきらない本はこの店に売り、また読みたくなれば買い戻せば良いのだ。もちろんそうなれば数百円の負担はあろうが、本を保管していただいていると思えば安いものだ。

もし売れちゃってたら、その時は潔く諦めれば良い。自分の好きな本を誰かが買っていったことを喜び、どうしても再読したければネットで買えば良いのである。
われながら大変に画期的なアイデアじゃと私は小躍りし、早速、わが家の本を両手いっぱいの紙袋に詰めて古本屋さんへ。
いやー、いざやってみると本って重いね! いくら近所とはいえ、歩いている間に手がジンジン痺れてくる。よろよろしながらようやく到着し、これをまとめて買い取っていただけないかとレジのお姉さんに申し出ると、査定しますので少々お待ちくださいと言われてしばし待つ。
いや、しばし、ではなかった。

店の棚をゆるりと物色しながら楽しく待てばいいやと思っていたんだが、隅から隅までじっくり眺め、気になる本は手に取って何ページか読んでもまだ終わらない。店内を3周くらいして、もしや何か問題でも……? と不安になったところでようやく「お待たせしました」と声をかけていただき、ホッとしてレジに向かう。
いやー、この後起きたことはいまだに忘れられません。

「40円です」。お姉さんはそう言った。

私はうろたえた。いや、40円……って。もちろんそれほどの値段はつくまいとは思っていたけれど、にしても想定をはるかに超える価格!
両手いっぱいの本である。重かったんである。がんばって持ってきたんである。そしてこんなに待ったんである。腹がたつとかなんとかではなく、そのあられもない数字を前に、がんばった自分がひたすら滑稽で、恥ずかしかった。綺麗なお姉さんにそんな間抜けな数字を言わせてしまったこともなんだか申し訳なかった。

この辺りの書き方、さくらももこさんみたいな感じで凄く好きですね。

そして、内容も深いですね。「所有から共有へ」というシェアする文化への意向を考えさせられます。一昔前なら当たり前であった感覚のはずなんですよね、これって。

古本屋やブックオフで売った事はありますが、確かに量から考えると衝撃的な値段の時がありますね。「え、ゼロ一個違うんちゃう?」って思った事ありますもん。その逆もありましたけどね、古いフィギュア売った時にゼロ一個違うと思った事もありました。200円くらいやと思ってたのが、2千円くらいとか。

そして、続きはさらに深くなっていきますね。

値段をつけられた「気の毒な本たち」

レジの前に、私の本がうず高く積まれている。
私が愛した本。ついこの間まで手放すことを躊躇した本。その頃はえらく輝いていた本。それが今や、実にうらぶれて見えた。まとめて40円というレッテルを貼られ、すっかり自信をなくして下を向いている感じ。どうにも気の毒なことこのうえない。

こんなことならむしろタダでよかったのに……そうだよ、タダで寄付したほうがずっとずっとよかった!
それなら待つこともなかったし、それよりも何よりも、私って太っ腹だよ良いことをしたと胸を張っていられた。本だって堂々と旅立っていけたに違いない。それが値段をつけられたばっかりに、すべてがひっくり返ってしまったのである。

なるほどお金とは、なかなかに恐ろしいものだ。
もの自体は同じでも、いくらの値がついたかで急に、そのものに「価値」がついてしまう。1万円なら良いもの。5円ならダメなもの。
でもよく考えてみれば、それは単なる幻だ。他人の目から見た1つのレッテルにすぎない。自分にとって良いものであれば、それが他人から見てどれほどヘンなものであれ、不要なものであれ、どうということもないはずである。

なのに、いざ実際に数字がついてしまえば、どうしてもその数字に振り回されてしまう自分がいた。
そうか。愛するものに値段をつけてはいけないのだ。

その点、プライスレスは最強である。自由である。少なくとも世の中の序列に組み込まれて一喜一憂することなく、自分にとって価値があるかどうかを最後まで大切にしていられる。
そうだよ考えてみればそれで十分じゃないの。大事なことは、自分が愛したものが捨てられることなく誰か必要な人の元へ旅立っていくことだ。
それに冷静に考えてみれば、多少のお金を受け取ったところで何を買うわけにもいかないのでのである。だって新居に入りきらないからこそ、こうして必死にモノを減らしているのだ。なのにお金が手に入ったからと新たにモノを買ったりしたら、どう考えてもアホ100%である。

「値付けされる=レッテルを張られる」事の意味。

「値段=他者による評価点」をつけられる事に対する意識。

これはモノだけじゃない、人間の価値も全く同じになっていると思うし、これに現代人は苦しめられていると思うんですよね。

「他人に”勝手に”付けられた評価」を、自分自身の価値だと思い込み、自分の可能性を自分で奪ってしまっている。それが現代を生きる人のほとんどの生き方になってしまっているのだと思う。

スポーツので世界で例えるなら、自分はバッターもピッチャーもやりたいんだ!」と言った時に、「少年野球じゃないんだから、プロで通用するわけがない!」と言われる様なもの。

イチロー選手ですら、断念した事だし、誰もが無理だと思う。でも大谷選手はそこでその選択をしなかったんんですよね。勿論、周りがすごく良かったのも大きいと思うけど。

「出来るかどうか」は本当はやってみないと分からない。イチロー選手には無理だったかもしれないけど、大谷選手には出来た。これは別にどっちがエライとかではないんですけど。どっちか一本の方が技術を深く探求出来るでしょうしね。

でも、この「値段=他者からの評価点・レッテル貼り」から外れる意識、というのか覚悟といったものは本当に大切なんじゃないかと思います。

「自分の価値は自分で決める」という言葉がありますが、そういう意識は必要だと思う。

今あげたイチロー選手も、大谷選手も、あれだけ心がブレないのは、そういった意識をしっかりと持っている人なんでしょうね。

「プライスレス」な生き方、というのは、他者から貼られたラベルを外す事、自分で自分の価値を新しくラベリングする事なのかなと思います。

そして、最後は「お金=マネーシステム」への疑問。

「もらっていただく」だけで十分ありがたい

ということで、私は家に残っていた段ボール箱いっぱいの古いオシャレ雑誌を、店主の了解を得たうえで、タダで店に送ることにした。
予想どおり、とてもいい気分だった。お礼まで言っていただいた。旅立っていった雑誌たちも最後まで堂々としていた。

ーー以上が、私がメルカリを使わない理由である。今や、着なくなった服や、読んでしまった本や雑誌は、知人やお店に声をかけてタダでもらっていただくことがすっかり習慣化した。
こうなってみてよくわかったのは、これは別に太っ腹な行為でもなんでもなく、「もらっていただく」だけで十分ありがたいということだ。
何しろ家に不要なものがあふれれば、狭いわが家はさらに狭くなってしまう。つまりは不用品を誰かがもらってくれるということは、家を広くしているということにほかならないのである。東京のバカ高い家賃を考えれば、これほど価値のあることはなかなかない。

そしてもう一つ、私の人生において非常に重要なことが起きた。
プライスレスという仕組みを日常の暮らしに取り入れたことで、私の中で「お金の価値」というものがグラグラと揺れ始めたのである。
もらうお金は多ければ多いほど良い。それが世間の常識であり、もちろん私の常識でもあった。そこへ「お金をもらわないほうが良いこともある」という新しい常識を割り込ませたことで、なんだかよくわからないことになってきた。

「お金ってなんだろね?」と、ずっとわが物顔でイバっていたお金にふと尋ねる。するとお金は急にモジモジして顔を赤くするのである。

これは私にとっては、とても大きな事態だった。何しろ会社を辞めて給料がもらえぬ身になったのだ。お金という数字だけで見れば、私の価値は明らかに減ってしまった。
でもその数字が、そもそも意味のないものだとしたら? 私の価値は私が決めれば良いのである。お金を稼げないからと、惨めに思ったり、誰かを羨んだり、下を向いたりする必要なんて全然ないのだ。
これはまさしく革命と言ってもいい事態ではなかろうか。

人間が発明した最大のものが「おカネ」とはよく言われる事ですが、確かにそれは言えると思うんですよね。悪い意味ですけど。

このおカネという道具のお陰で、人間の歴史において、どれだけの人が殺されたり、不幸になったり、裏切ったり、裏切られたりした事だろう。

戦争だって、実際はただのマネーゲーム。おカネのために人は動いている、末端の人にとっては宗教問題や民族の誇りだったりするけれど、それは利用されているに過ぎない。

おカネとは何か?

その本当の価値とは?

そして、お金の正体は何か?

ほとんどの人が振り回されるその道具の正体を本当に見極めた時、人は本当の自由を手に入れるのかもしれませんね。

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