「ブッダの教え」より③

秩序。

物事の筋道、順序を押さえておく事はとても大切ですね。

【頭と尾】

ある蛇の頭と尾とが、ある時、お互いに前に出ようとして争った。

尾が言うには、

「頭よ、お前はいつも前にあるが、それは正しい事ではない。たまには私を前にするがよい」。

頭が言うには、

「私がいつも前にあるのは決まった習わしである。お前私前にする事は出来ない」と。

互いに争ったが、やはり頭が前にあるので、尾は怒って木に巻き付いて頭が前へ進む事を許さず、頭が怯むすきに、木から離れて前へ進み、ついに火の穴へ落ち、焼けただれて死んだ。

ものには順序があり、異なる働きが備わっている。不平を並べてその順序を乱し、そのために、各々に与えられている働きを失う様になると、その全てが滅んでしまうのである。

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人間エゴとプライドの塊やから、常にこの例え話の様なバカバカしい事をやってますもんね。

気を付けよう。

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これはメチャクチャ感動しました。

【竹やぶの恩】

ヒマーラヤ山のふもとの、ある竹やぶに、多くの鳥や獣と一緒に、一羽のオウムが住んでいた。

ある時、にわかに大風が起こり、竹と竹が擦れ合って火が起こった。火は風にあおられて、ついに大火となり、鳥も獣も逃げ場を失って鳴き叫んだ。

オウムは、一つには、長い間 住居を与えてくれた竹やぶの恩に報いるために、一つには、大勢の鳥や獣の災難を哀れんで、彼らを救うために、近くの池に入っては翼を水に浸し、空にかけのぼっては滴(しずく)を燃え盛る火の上に注ぎかけ、竹やぶの恩を思う心と、限りない慈愛の心で、たゆまずにこれを続けた。

慈悲と献身の心は天界の梵天を感動させた。梵天は空から下って来て、オウムに語った。

「お前の心は健気であるが、この大いなる火を、どうして羽の滴で消す事が出来よう」。

オウムは答えて言う。

「恩を思う心と慈悲の心からしている事が出来ないはずはない。私はどうしてもやる。次の生に及んでもやり通す」と。

梵天はオウムの偉大な志に打たれ、力を合わせてこの竹やぶの火を消し止めた。

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魂が震えますね。

これにそっくりなハチドリの話があるけど、このブッダの話の方が遥かに昔やろうから、あれってもしかしてこのオウムのパクリなんかな?

いい話ってどんどんあちこちの国に伝わってその土地に馴染みやすい形に変化していくから、そういう話の一種でしょうか。

けど、このオリジナルであろう話はハチドリ以上に感動しました。

【驕り高ぶる心】

樹木の芯を求めて林に入った者が、枝や葉を得て芯を得た様に思うならば、まことに愚かな事である。ややもすると、人は、木の芯を求めるのが目的でありながら、木の外皮や内皮、または木の肉を得て芯を得た様に思う。

人の身の上に迫る生と老と病と死と、愁い、悲しみ、苦しみ、悩みを離れたいと望んで道を求める。これが芯である。

それが、わずかな尊敬と名誉とを得て満足して心が驕り、自分を褒めて他をそしるのは、枝葉を得ただけに過ぎないのに芯を得たと思う様なものである。

また、自分のわずかな努力に慢心して、望んだものを得た様に思い、満足して心が高ぶり、自分を褒めて他をそしるのは、木の外皮を得て芯を得たと思う様なものである。

また、自分の心がいくらか静まり安定を得たとして、それに満足して心が高ぶり、自分を褒めて他をそしるのは、木の内皮を得て芯を得たと思う様なものである。

道を求める者にとっては、尊敬と名誉と供養を受ける事がその目的ではない。

まず最初に、人はこの世の生と死の根本的な性質を心に留めなければならない。

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これ、ありがちどころか、ほとんどの人がこの状態に陥ってしまっていますね。

何らかの目的のために必要な知識や技術を学んでいるはずが、学歴や資格そのものを取る事に意識が向かい、その本来の意味を忘れてしまう。

手段と目的が入れ変わり、真の目的を忘れるのが人間という愚かな生き物。

本当に気を付けようと思います。

【六つの行い】

六波羅蜜(ろっぱらみつ)とは、

布施、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、

精進、禅定(ぜんじょう)、智慧(ちえ)

の六つの事で、この六つを修めると、迷いの此(こ)の岸から、悟りの彼(か)の岸へと渡る事が出来るので、六度(ろくど)とも言う。

布施は惜しみ心を退け、持戒は行いを正しくし、忍辱は起こり安井心を治め、精進は怠りの心を無くし、禅定は散りやすい心を静め、智慧は愚かな暗い心を明らかにする。

布施と持戒とは、城を作る礎(いしずえ)の様に、修行の基(もと)となり、忍辱と精進とは城壁の様に外難を防ぎ、禅定と智慧とは身を守って生死(しょうじ)を逃れる武器であり、それは甲冑に身を固めて敵に臨む様なものである。

施した後で悔いたり、施して誇りがましく思うのは、最上の施しではない。施して喜び、施した自分と、施しを受けた人と、施した物と、この三つを共に忘れるのが最上の施しである。

正しい施しは、その報いを願わず、清らかな慈悲の心をもって、他人も自分も、共に悟りに入る様に願うものでなければならない。

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凡人なので、なかなかこんな意識を持って他者に施しは出来ませんが、こういう心境でないと結果として自分のエゴによって自分自身が苦しんだり、悩んだりする結果となるんですよね。

少しでもこういう清らかな心を目指したいもんやなと思います。

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