言葉を選び、共有する能力

陸上の為末さんの文章を読んで考えていました。

これ、人に指導する時にめちゃくちゃ重要な事で、ここの意識が共有出来ていないと、教えたい事が通じない。

試合の時も普段の会話や心の交流があってこそ、今ここで伝えたい事が一言で伝わったりする。

子育てでも学校教育とかでも同じで、この部分の共有を手抜きしていると、表面的な事しか伝わらない事になってしまうと思う。

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言葉は現実の比喩です。

今目の前に見えている視覚情報をそのまま言葉に置き換えるなら、視覚情報量と言語情報量が同じになるはずです。

しかしテキストで送るデータと動画で送るデータの重さが違うように、明らかに言葉に置き換えると情報量が圧縮できます。その代わり不正確になります。

不正確だけれど大体合っている。

強調したいところは伝わっている。

それが言葉です。

なぜそれが可能かというと言葉は現実を比喩的に圧縮し、それが同じ文脈を共有する人には近いイメージとしてその人の中で再展開されるからです。これは奇跡的なことです。

以下、

長文ファンの皆様おはようございます。

言葉によって私たちは相手の考えていることを理解します。ですから私たちは表出された言葉に注目しますが、本当に重要なことはそれに付随する情報です。言い換えるとその文脈の中で、言葉になっていない外部情報が重要です。

陸上競技では外部からの助力行為が認められないために、競技場では外からアドバイスすることができません。でも、実際にはスタンドから声をかけることがあります。それほど多くは話せませんが。

あるハードル選手の友人が、ずっとハードルに対して勢いよく入るために遠くから踏み切って上半身を前に倒すことを意識していました。練習でもそれが一番の課題でした。

大きな大会の予選の時にその選手がスタート練習を一度行った時、コーチがスタンドから「enough!」と叫びました。選手は大きく頷いてその試合では予選を一着で通過しました。

コーチは「落ち着いて挑め」とか「あれだけ練習やったのだから大丈夫」とか「今日の動きは普段よりいいぞ」とかあらゆる言葉の選択肢がありますが、その中で「enough」を選びました。そして、これまでの練習過程を共にしてきた選手は、それだけであの課題としていたハードルとの距離が満足のいくところまで来たのだと理解しました。

明らかにこの言葉が含む意味はこれまでの過程という文脈に依存しています。言葉が含意するものは、その文脈の中で語られない、つまり除外されたそれ以外の可能性によって決まっています。この局面でこの一点、この一言に絞ること自体が意味を持っています。選手の意識がこの言葉により心配事から解放されたわけです。

大変興味深いのは「enough」という言葉だけでどうしてコーチが言わんとしたことと、おそらく同じことを選手が思い浮かべたのかということです。これは誰が読んでもできるだけ解釈の幅がないようにする言葉の扱い方とは違います。解釈なんてなんとでもできる、二人が共有する文脈の中でこそ同じものをイメージできる言葉の使い方です。仮に前者を官僚的言語とし、後者を文学的言語とします。

言葉は現実の比喩です。今目の前に見えている視覚情報をそのまま言葉に置き換えるなら、視覚情報量と言語情報量が同じになるはずです。しかしテキストで送るデータと動画で送るデータの重さが違うように、明らかに言葉に置き換えると情報量が圧縮できます。その代わり不正確になります。不正確だけれど大体合っている。強調したいところは伝わっている。それが言葉です。なぜそれが可能かというと言葉は現実を比喩的に圧縮し、それが同じ文脈を共有する人には近いイメージとしてその人の中で再展開されるからです。これは奇跡的なことです。

共有されている文脈の中で除外されたそれ以外の可能性が言葉の意味を決めている。そう考えると、結局言葉は「語られないことこそが重要なのではないか」と最近は考えています。

そのためには言葉を選び短くする努力が必要なのではないかと今更気づいています。

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